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【短編】ワイプアウト

 好きな人の好きなものを、心から好きになれない自分が腹立たしい。

 日の明けきらない薄暗い砂浜を、叔父がサーフボードを抱えて歩いてくる。黒のラッシュガードが、年齢のわりに引き締まった上半身を彫像のように強調していた。彼の背後に広がる海は、煌めきを失い、空との境目を曖昧にしている。夏が過ぎたあとの海は、いつもこんな感じだ。たとえ波があっても、どことなくのっぺりとして、弾みを失くしている。
 濡れた髪を振ってから、叔父がわたしに笑いかけた。青みがかった空気に白い前歯がよく映える。古い洋画に出てくる俳優みたいだった。
「リツも乗るか? スーツ、あるんだろう?」
 まだ眠っている大気を、その声が低く貫く。背骨が痺れる感覚を味わいながら、わたしはぷるぷると首を振った。おしゃべりな性格だと学校やチームでよくからかわれるのに、いつからか、叔父の前で気安く言葉を発することができなくなった。
 叔父は肩を竦めた。
「学校行く前になにか食べていくか? 牛丼屋くらいしか開いてないけど」
「いらない」わたしは視線を逸らす。
「でも、朝、食べてないんだろ?」
「お腹、減らないから。昼まで食べなくても平気」
「そうか……」彼は前髪をかき上げ、またにっこりとした。「じゃあ、もう少し粘っていてもいいかな」
 わたしが頷くと、叔父は再び海へと歩いていく。波打ち際でしずくを蹴飛ばし、腰のあたりまで海面に浸かると、ボードをアルミホイルみたいな海面に滑らせてパドリングを始めた。今朝はうねりが少なく、目ぼしい波がなかなかやってこない。予報に反して風も凪いでいて、フラットといっていい状態。それが、叔父に不完全燃焼の思いを抱かせているらしかった。
 叔父から目を離すと、東の空の雲が先ほどよりも明るくなっているのが見えた。スマホを取り出しかけたが、友達はみんなまだ眠っているだろう。そう考えると、制服姿でビーチにぼーっと座っているだけの自分が、ひどくバカらしくなった。早起きしてまで、わたしはいったいなにをやっているのだろう? どうせ海に出るつもりもないくせに、わざわざ連れてきてもらったのはなぜだ? 叔父さんだって、きっと、わたしを変なやつだと思っているに違いない。
 叔父はインサイドで波を待っている。こっちを見たら手を振ってあげよう、と思ったのに、彼はじっと沖のほうを見据えて振り返らない。海はところどころに波動を起こしているものの、やはりライディングできるほどではなかった。今日はもう諦めたほうが賢明な気がする。さっき、嘘でも、なにか食べにいきたいと言っておけばよかったのだ。
 一年に何度か、こういう肩透かしを食う日がある。天気と同じで、波の予報もあまり鵜呑みにはしてはいけない。「海は生き物だから」というのが叔父の口癖だが、わたしも同感だ。サーファーなら誰でも知っている。水面の下で絶えず揺らめき、気まぐれの波を起こす海は、まるで堪え性のない子供みたいに難しい相手だ。たとえ凪いでいても、なにが起こっても不思議ではない危うさを孕んでいる。おとなしくしていると思った次の瞬間に波に攫われることだって、ざらにあるのだ。
 海の怖さを久しぶりに思い出し、わたしは無意識に膝を抱えた。

 子供の頃、わたしはこの海に殺されかけたことがある。
 家族で海水浴に出かけた日、前触れなくやってきた波にさらわれてしまったらしい。三歳か四歳の頃のことで、正直、あまりよく憶えていない。ただ、海中に引きずり込まれたときに見た、水面の光の畝を背負う叔父の黒いシルエットだけが、脳裏に鮮明に焼きついている。彼は、深い場所へ沈んでいこうとするわたしの腕を取り、空気に満たされた明るい世界へと連れ戻してくれた。だから、叔父はわたしの命の恩人でもあるのだ。
 言うまでもなく、わたしはしばらく海に近づかないようになった。海水浴なんて、論外だった。地元の海は、ほかの海と比べて穏やかなことで知られていたけれど、それに殺されかけたわたしには関係のないことだった。今日は大丈夫かもしれない。明日も明後日も、ひょっとしたら海は優しくわたしたちを迎えてくれるかもしれない。それでも、最後には、海は牙を剥いてわたしたちを呑み込むのだ。それを、わたしは子供心に理解していた。
 叔父は、その頃から我が家へよく出入りしていた。実家を拠点にしていた彼は、プロサーファーとして国内外で活躍していて、たまの休みになると、よくわたしの家へ遊びにきてくれた。独身の彼にとって、姪っ子と遊ぶのは、ことのほか面白いことだったらしい。そしてわたしも、青年のように若々しい叔父を、実兄のように慕っていた。
「リツは、まだ海が怖いかい?」
「こわくないよ」わたしは強がった。「きらいなだけ」
「そうかぁ。おじちゃんは、海、好きだけどなぁ」
 そう語る叔父に、わたしは寂しさを感じた。わたし以外の好きなものについて、彼に語ってほしくなかった。
「だって、おじちゃんはサーフィンするからでしょ。リツは、サーフィンしないもん」
「それなら、リツもサーフィンすればいい」叔父はにっこりした。「きっと、海を好きになれるよ。その怖がりな性格も直るんじゃないかな」
 わたしは床に寝転がり、勢いをつけて踵を叔父の肩にぶつけた。

 わたしが自分のサーフボードを持つようになるのは、それから数年後、小学校の中学年に上がってからである。プロを引退したばかりだった叔父の手解きを受け、毎日のように海へ通った。中学に入ると、学校外のチームにも参加し、大会へ出場するようになった。表彰台に立てるほどの腕前になれたのは、たぶん、叔父の教え方が上手かったおかげでもあるのだろう。
 海はもう怖い場所ではなくなっていた。
 波は自分を輝かせるための舞台だった。
 そして、叔父はこれまで以上に、わたしにとって特別な存在になっていた。
 高校に進学すると、わたしは何人かの男子と交際するようになった。しかし、どの相手も、キスもしないうちから別れてしまった。彼らはみんなエネルギーに溢れ、いつでも笑みを絶やさなかったけれど、わたしの前では不思議とおとなしくなった。わたしの目が、ほかの誰かを見ているとわかって、いたたまれなくなったのかもしれない。わたしも似たような気持ちだった。目の前の男子と話していても、いつの間にか叔父と相手を比べていることが、よくあった。それが原因で喧嘩別れすることがほとんどだった。彼らとの関係が破局してしまうと、わたしは表面上では傷心しているように振る舞いながら、ほっとしている自分を必ず胸の奥に見つけていた。
 自分がいつからこんな袋小路に踏み込んでしまったのか、最近よく考える。
 叔父は、わたしの大会での成果を心から喜び、わたしの交際を心から祝福し、わたしの破局を心から残念がった。わたしが落ち込んでいるときには、ドライブに連れて行ってくれることも頻繁にあった。しかし、一度サーフボードを抱えると、彼はもうわたしには目も暮れず、自分のためにやってくる波を待ち続けるのだ。そのときの彼の表情はとても厳しくて、それが叔父の本当の顔なのだとわかる。普段のニコニコとした顔が、あくまで陸上で暮らすための仮面のひとつに過ぎないことが、よくわかるのだ。
 海で繋がっていながらも、同時に海が自分たちを隔てる壁になっていることに、わたしはようやく気づいた。
 叔父はきっと、わたしが波に呑まれて死んでしまっても、心から悼むだけで、また波を待ち続けるのだろう。けして海を手放さないだろう。それに気づいたわたしは、自分がとんでもなく長い間、道化を演じていたことにやっと思い至ったのだ。
 わたしがサーフィンを始めたのも、大会に出場し続けたのも、すべて叔父と繋がっていたかったからに過ぎない。波に乗り続けていれば、上達を続けていけば、いつかはこの願いが叶うはずだと、根拠もなく信じていた。
 なんて幼稚な……。
 なんて不純な……。
 高三になった今年、夏の大会を最後に引退することを告げると、叔父はひどく驚いた。「もったいない」と何度も言ってくれた。しかし、才能の限界は自分が一番よくわかっているし、叔父だって、姪っ子の伸びしろが尽きていることにはとうに気づいているはずだった。成績にもそれは表れていた。プロだなんて、口にするのもおこがましい幻だった。
 大学受験も控えているし、このまま続けても、きっと形にはならないはずだ。そういうことを言葉少なに伝えると、ようやく叔父は納得してくれた。
「でも、やっぱり、悲しいな」彼は帰りの運転中に呟いた。「リツ、あんなに頑張っていたのに。海も好きなのに……」
 わたしは助手席で膝を抱えて黙っていた。
 違うよ、叔父さん……。
 わたし、海もサーフィンも、べつに好きじゃないよ。
 そこに叔父さんがいたから。
 頑張ったのも、叔父さんが見てくれていたからなんだよ。
 叔父さんみたいに、海を、サーフィンを、好きにはなれないよ。
 夏が終わり、わたしがサーフィンを諦めても、やはり叔父は海へ通い続けた。わたしもたまに波に乗ってみることはあったが、以前のような情熱はもはや見る影もなかった。海は味気ない場所に変わり、波はただの現象でしかなくなっていた。それなのに、叔父に対する気持ちだけが膨らみ、静かな鼓動を未だに刻んでいる。まるでゾンビだ。死んでからも、腐臭をまき散らしながら、あてもなく彷徨い続ける屍だった。
 好きな人の好きなものを、心から好きになれない自分が悲しかった。

「リツ」
 はっと顔を上げると、叔父の濡れた顔がそこにあった。朝陽が、雲の隙間から柱を伸ばしている。堤防のほうでは、いつの間にか車の行き交う音が生まれている。
「今日は、もうやめとく。待っていても無駄っぽいから」
「あ、うん」寝起きのように頭がはっきりしなかった。
「朝ごはん、本当にいらないのか?」
「いらない」わたしは腰を上げ、スカートのお尻についた砂を払う。
「でも、食べないと、授業とか頭回らないだろ」
「練習やめてからお腹減らなくなった」わたしの声色が勝手に硬くなった。「早く着替えてきてよ。先に駐車場、行ってるから」
 叔父はなにか言いたげに口を開いたが、結局は無言で頷いた。わたしが見張っていたバッグを持って、シャワー小屋へと歩いていく。わたしは刃物で心臓をズタズタにされたような痛みを味わいながら、駐車場に向けて歩き出す。一度だけ海へ振り返ると、黄金色の朝陽の反射が目を突き刺した。青い空気はもうどこにもなかった。
 叔父は十分ほどでやってきた。にこにこと、いつもの笑みを取り戻している。助手席にいたわたしは視線を逸らし、意味もなくスマホの画面を見つめた。
「学校に送ればいいんだよな?」
「うん」
「こんなに早いと、友達もまだ登校してきてないだろ」
「仮眠するから、いい」
 サーフボードを屋根に取り付けて、叔父のワゴン車が動き出す。車道へ侵入する前に叔父は煙草をくわえ、それから思い出したように箱に戻した。わたしは、べつに煙草の匂いが嫌いではない。それは彼も知っている。わたしの制服に臭いがつくのを心配したのだ。
 海から上がると、この人はいつも慎重になる。気さくに、しかし、割れ物を扱うかのように、姪のわたしへ接するようになった。子供の頃は違っていたはずなのに、最近は、特にわたしがサーフィンをやめてからは、ますますその態度が顕著になった。たぶん、わたしのほうが、その距離を作り出しているのだろう。いい加減にしろよ、と怒鳴りたくなる。どうしてわたしは、自分で自分を苦しめるような真似を繰り返すのだ?
 車は海岸線を走っている。窓を覗くと、ガードレールの下の崖に、波のぶつかりが見えた。勢いは弱いけれど、それでも白く泡立って、しつこく抗議するように寄せては返している。
 自分が溺れたときのことを、再び脳裏に蘇らせる。繰り返されるのは、わたしを助けるために飛び込んだ叔父のシルエットと、掴まれた手首から伝わる硬い指の感触だけ。
 海面に引き上げられたとき、幼いわたしはなにを思っただろう。肺に流れる空気をありがたがったのだろうか。日焼けした叔父の顔に愛しさを見出したのだろうか。映像だけが鮮明で、自分がそのときなにを感じたのか、もう思い出せない。他人の記憶に等しかった。
「勉強の調子は、どう?」
 叔父がふいに訊ね、わたしの追想は断ち切られた。
「べつに……」
「志望校、もう決めた?」
「まだ」
「大学行くなら、独り暮らしになるなぁ」
「そうだね」
「パパもママも、きっと寂しがるよ」
 わたしは答えなかった。叔父さんはどうなの、と問いかける勇気がどうしても湧かなかった。
「大学でも、サーフィンは趣味で続けるだろう?」
「さぁ……、大学の場所によるよ」
「まぁ、そりゃそうか……」
 真冬の水みたいに弾まない会話だった。わたしはほんの少しだけ窓を開ける。この窮屈さを払拭してくれるなにかが流れ込んできてほしかった。
 叔父は微笑を保っていたけれど、明らかに普段と様子が違っていた。ちらちらとこちらを横目で窺っている。視線が合わなくても、肌の感触でそれがわかった。ある種の視線は触覚に訴えかけてくるものだ。
 いっそ、ぶちまけてしまおうか、と思った。
 わたしが長く隠し続けたものを、いまここで、本人に打ち明けてしまおうか。
 あぁ……、それも悪くないかもしれないな。
 きっと、もっと面倒になるだろう。
 きっと、もっと困らせるだろう。
 それでも、いまのこの、溺れるような息苦しさが、少しはマシになるかもしれない。崖にぶつかって砕ける波頭のように、一瞬だけでも煌めきを手にすることができるかもしれない。いや、絶対にそうなる。叔父に引き上げられたときと同じように……、その一瞬の息継ぎを得られさえすれば、わたしはこれからも生き続けることができるに違いない。
 車窓に光の畝が見えた気がした。
 ここはまだ海の下。
 空気はずっと上のほう。
 わたしはそれを得なければならないのだ。
 あとのことなんて、知るものか。
 海岸線を逸れ、交差点の信号で停車したとき、わたしはハンドルを握る叔父へ向いた。それとほぼ同時に、叔父も肚を括ったような顔つきでこちらに向いていた。
「リツには先に言っておこうと思うんだけど」
「え?」先を制され、わたしは出かかった言葉を呑み込む。
「あ、ごめん」叔父も目を丸くした。「いま、なにか言いかけたね。なんだい?」
「いや、べつに……」
「いいよ、先に言って」叔父は笑みを浮かべる。
「たいしたことじゃないから、べつにいい」わたしは加速した鼓動を意識しながら、できるだけ冷静に答えた。「それで、えっと……、なに?」
 うん、と短く頷く。信号が青になり、叔父は前を見て車を発進させる。
「兄貴たちにはまだ話してないんだけどさ」彼は左の頬を手のひらでこする。「俺、年が明けたら、結婚するつもりなんだ」
 耳から、いっせいに音が消え失せた。
 波に吞み込まれたときのように。
 視界が回転し、音も、光も、空気も。
 鼓動さえ……。
 わたしは叔父を見る。
 シルエットではない叔父の姿を。
「そうなんだ」
 わたしの口が、貴重な気泡を吐いた。
 泡は言葉となり、そして……。
 先ほどまで吐き出そうとした言葉たちが喉の下で暴れ、わたしは唇を結んで引き締めた。
 言うな。
 絶対に言うな。
 叔父がちらりとこちらを見る。笑ってはいなかった。
 なにか、言わなければならない。喉の下にあるこの言葉たちとは、べつの言葉を。
「結婚って、誰と?」
 やっとの思いでそう訊ねると、叔父は口許に微笑を浮かべた。昔と変わらない、優しい笑み。
「リツの知らない人だよ。昔からの馴染みでね、くっついたり、離れたりしていて……、お互いにこの歳まで独り身だったんだけど、なんというか、一緒になってみようかってことになってね」
「へぇ……」
「だから、来年からは、もういままでみたいに海にはいけない」叔父がウィンカーを出して右折する。このまま緩い坂道を道なりに上っていくと、やがてわたしが通う高校に突き当たる。「これまでは仕事との折り合いだけ考えていればよかったけど、これからはなんというか、家のことも考えなくちゃいけないから。住むところも変わるしね」
 わたしはなにも言えなくなって、車窓に目を移す。見慣れた早朝の町の景色が、ぼんやりと濡れて霞んでいた。
「リツ?」叔父が心配そうに呼ぶ。
 わたしは振り向かず、無言で首を振った。車が坂を上るにつれ、自分の体がどんどん深い場所へと沈んでいく気がした。わたしが必死に隠してきたものも一緒に、暗く冷たい底へと沈んでいくのだ。
 もう泡は昇らない。
 叔父も、それ以上はなにも言わなかった。
 もしかしたら、彼は、わたしの気持ちをとっくに見抜いていたのかもしれない。この沈黙が、なによりの証に思えた。わたしの幼稚さと不純さを知って、いまこうして静かな引導を渡してくれているのかもしれなかった。
 これでいいんだ、とわたしは思った。
 これが、そもそものわたしの正しい在り方だったのだ。叔父と違い、海に居場所を見つけられなかったわたしには、この陸上で生きるほうがずっとふさわしい。波を待つ必要はもうない。波に呑まれる心配も、もうしなくていいのだ。
 それなのに、どうして涙があふれるのだろう?
 これが正しいはずなのに。
 すべてが元のレールに戻ったはずなのに。
 叔父は何度もわたしを見て、なにか言葉をかけようとしていたけれど、結局はなにも言わなかった。
 わたしは坂道の下に見える海原を眺め続けていた。いまは秋空の青を映し、白い陽射しできらきらと輝いていた。機嫌が良いのかもしれない。海は生き物だ。生き物なら、機嫌だってもちろんあるだろう。これからも叔父を独り占めできることを、喜んでいるのかもしれなかった。
 
 校門にはまだ生徒の姿がひとつもなく、運動部員の姿もなかった。わたしは後部座席に置いていた鞄を掴み、助手席を降りる。叔父はワゴン車をアイドリングさせながらそれを眺めていた。
「ねぇ、叔父さん」扉を閉める前にわたしは言った。「わたし、もうサーフィンやらないから。もう海には行かない」
 叔父は笑顔を浮かべず、わたしを悲しげに見つめ返した。
「でも、ときどき、誘ってほしいかも」
 彼がきょとんと瞬きする。
 わたしはこの日、初めての微笑を彼に向けてやった。
「だって、叔父さんの奥さんに会ってみたいから」
 それは、半分は嘘だった。
 わたしは、叔父と結婚するどこかの誰かよりも、かつてわたしを殺し損ねた海を、もう一度眺めてやりたいと思ったのだった。五体満足で、なにもかも吹っ切れて、もはや海を特別な場所だなんて感じていない自分を、海に見せびらかしてやりたいと思ったのだ。なんて嫌味な女だろう、と思う。それでも、その嫌味な思いつきが、自分ではとても愉快だった。
「あぁ……」叔父もつられて、情けない笑みを浮かべた。「そうだな……、また誘うよ」
「じゃ、わたし、行くね」
「うん……、じゃあ、またね」
 ワゴン車は路地に頭を突っ込んで切り返すと、坂道をゆっくりと下っていった。ここからでは海は見えなかった。サーフィンを諦めてずいぶん日が経っていたが、わたしはこのとき初めてそれを実感した気がした。
 無人の昇降口で靴を履き替えているとき、叔父に「おめでとう」と祝福を言えなかったことを思い出し、再び視界が霞んでしまった。しかし、わたしは素早く袖で目許を拭い、溜息をついて教室を目指した。髪から潮の匂いがする。長い年月ですっかり染みついた、海の吐息だった。
 教室にはサッカー部の男子たちがいたけれど、ユニフォーム姿の彼らはわたしと入れ替わるように廊下へ出ていった。もうすぐ朝の喧騒がやってくる。わたしは自席に腰を下ろすと、なんとなく天井を見つめた。そこに光の畝が見えないかと思ったのだ。
 まぶたを閉じると、遠くから潮騒が聞こえた。でも、たぶん、気のせいだろう。だって、ここは海の中なのだから。水中で潮騒が聞こえるなんておかしな話だ。ここは陸上ではない。ここは、わたしだけの、新しい海なのだ。
 これからわたしは、自分だけの力で海面を目指さなければならない。
 いつまでも誰かの手を待っているわけにはいかない。
 そのためにも、いまは少しだけ、眠ろう。
 そして、目が覚めたら、新しい空気を胸いっぱいに吸い込みにいこう。
 新しい波を待つために。
 そこを滑っていく自分を想像して。
 何度もひっくり返りながら。
 好きになれると信じて……。


<了>



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※2020年執筆。
 見出し画像:みんなのフォトギャラリー(たからにゃ【イラスト】様)


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