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超短編小説「勿怪の幸い」

     
         
   放課後、有希ゆきは図書室で動物図鑑を手にいつもの窓際の席に座った。六人掛けの机には有希のほかは誰も座っていない。図書室にいる生徒はほんの十人程度であった。 西日が黄色と赤色を交ぜ合いながら図書室の机や椅子を追い越してすり抜けていく、昼間の終わりを実感する時刻である。中庭の銀杏の葉はほんのり黄色に色づいていて、陽が沈むまであっという間になった。
 夕刻から夜に向かう空の様子は、幼いころに読んだ物の怪の民話を思い出した。妖怪たちは昼間どこかに隠れていて、黄昏が終わるころ動き出すのだ。くれぐれも人間に遭遇しないよう、用心深く、息を殺してやってくるので、誰も妖怪を見たことがない。

 有希は動物図鑑におおよそのページ数の厚さに人差し指を挟んで開ける。ほぼ毎日のように図鑑を開けるので、思ったページに指が挟まったのだった。
 そのページの動物はハリネズミで、両目が漆黒の丸。足には4本の指。体の背中には針を刺したような体毛があり、撫でれば刺さりそうに見える。針だからやはり堅いのだろうか。実際に触ったことが無いので、有希は感触すら想像ができないでいる。 
 図鑑のハリネズミは向かって左方向に顔を向け、四肢をそろえて行儀よく静止していた。
 毎日、放課後になると有希は図書室でこのハリネズミを見ているが、見れば見るほど、今にも動き出しそうな躍動感があるな、と思うのだった。そしてこの動物とそっくりな男子がサッカー部の宮原暁斗あきとであり、同じクラスなのだ。
 有希はハリネズミをじっと眺めたあと、図鑑から顔をあげて運動場に目をやった。手前側にサッカーゴールがひとつ。反対側の奥に野球のネットがひとつ。運動場の半分ずつをサッカー部と野球部が使っている。陸上部はボールが飛んでこない端を使った。
 サッカー部の群れに目をやると宮原君の姿はすぐにわかる。黒々とした硬そうな髪の毛が頭に垂直に突き刺ささり、なで肩のせいで頭を支える首は人より長く見えた。わざと脚を短く見せたいのかハーフパンツは腰のあたりまでずらしている。短い足で全力疾走し、ボールに追いつき、器用に蹴りながら、敵の間をすり抜けた。頭髪が堅くてボールに突き刺ささると萎んでしまうのを恐れてか、彼がヘッディングする場面を見たことがない。時折、彼は手の指先で蟹の毛と髪の毛の間の地肌を器用に掻いた。なで肩は顎を伝う汗を拭くのに役立った。
 去年、中学に上がったばかりの春の日の放課後、有希はサッカー部の練習試合を観たことがあった。運動場の端で観ていたのだが、たまたま有希の方へ転げてきたボールを宮原君が拾いに来たのである。彼の眼差しは、野生の動物が獲物を追いかけるときの鋭さがあった。教室では見ることのできない眼差しを確実に確認した瞬間だった。
 それからというもの、有希は彼の姿ばかりを追いかけた。試合の勝敗よりも、走る姿に、ボールを蹴る姿に、土を混ぜるように動く黄色のスニーカーに、汗で輝く頭皮の毛根に、心奪われた。彼を丸ごと抱きしめたくなり、鎖骨のあたりからもわんと湯気が立ち上るほどだった。 
 今日で一年半経った。有希はいつか彼が自分に気づいてくれるのを信じて疑わない。だが、目印も何も与えていないのに彼が気づくわけもない。ましてや告白する勇気はない。いっそこのまま片想いでもかまわない、この手で抱きしめられなくても彼の姿さえ見ていられるならば救われる。だが、抱きしめたいと思う時点で、すでにそんなことで救われるはずのないことはわかっている。
 
 図鑑に目を戻すと、ハリネズミの左前足が一歩前に出ている気がした。見返しても見返しても、やはり一歩前に出ている。
 運動場では宮原君が走っていた。ボールを捕えようと一心不乱に走っている。Tシャツの背中は蝉の抜け殻のように丸く膨らんだ。
 西日は図書室を灰色で黄金色に染めた。有希の座る側は影になりつつあった。見渡せば生徒は皆、帰ったようで有希ひとりきりになっている。だが、教師から帰れといわれるまでここにいようと思った。
 またしても図鑑のハリネズミは動いていた。右後ろ足は土を蹴り上げたみたいに足の裏が天を向き、泥がついていた。 
 運動場では陸上部が帰り支度を始めた。野球部の姿はすでにない。灰みがかった青色の空が図書室を覆った。
 宮原君はなお走っている。図鑑のハリネズミを見ると駆け足姿に変わっていた。
 筆でさっと掃いたような雲が藍色の空に浮かび、月がうっすらと姿を現した。放課後のこの時間のために昼間の授業を我慢したのだ。夜まで粘りたい。教師が来るまで、大丈夫。
 藍色の空には月の輪ができていた。月明りを頼りに図鑑に目を戻せばハリネズミは遁走してあとかたもなくなっていた。
 宮原君がこちらに向かって走っている。Tシャツの背中が風船のように丸々と膨らんだと思ったら、宮原君は急にうずくまって丸になった。
 
 図書室はすでに闇の中である。誰もいないはずなのに誰かのいる気配がした。だが、ちっとも怖くない。すると何か丸いものが有希の足元にころんと転げてきた。目を凝らして見てみると、それは、図鑑から遁走したハリネズミである。
 彼は自ら有希のもとへ転がってきたのだ。屈みこんで恋しい人を両手で掬うようにして胸に抱きかかえ、図鑑を閉じた。
有希は学校を後にして、抱えたハリネズミの体温を感じながら、家に帰ったら誰にも見つからないように自分のベッドの中にそっと隠しておこうと思った。
                              (了)

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