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【随想】 「反戦演説」で考えた話

 駅前で、「戦争反対!」の横断幕を拡げている団体を見かけた。彼らは通行人に向かって叫んでいた。
「武器は必要ない! 平和を壊すな!」と。

 足を止めて反戦論者の説法に耳を傾ける。
 どうやら彼らは、『「平和主義」を唱えていれば、戦争から逃れられる』と言いたいらしい。
 しかし、そんな主張りくつが国際社会で通用するのだろうか? 

 多くの反戦論者は勘違いをしている。
 彼らは、戦争について、
「戦争しましょう」
「そうしましょう」
 と、双方の合意の基に始められるものだと思っている──ように思えてならない。
 無論、戦争はそんな“正々堂々”とした清々しいものではない。ましてや、審判のホイッスルで始まるような“青春のドラマ”でもないのだ。

 戦争は侵略者の都合によって始められる。

 戦端は、ある日突然開かれる。その“ある日”は、今この瞬間かも知れない。 

 『「平和主義」を唱えていれば、戦争から逃れられる』

 反戦論者の主張りくつはまるで、隣の家が火事になっても、
「ウチは火の用心をしているから、近くで火事があっても類焼しない」
 
と、高を括っている楽天家の「根拠なき確信」のようではないか。
 
 戦争放棄 平和主義

 それは人心を惑わす奇怪な呪文。
 「戦争放棄 平和主義」「戦争放棄 平和主義」。
 これさえ口ずさんでいれば、我が国に“火の粉”は降り掛かってこない……そんな保証がどこに在るというのか。

 さらに反戦論者は声を枯らしている。
「子供たちの未来のために戦争の出来る国にするな」と。 

 未来──この言葉を安易に引き合いに出す者は、時間の概念が欠落している楽天家である。
 時間とは──「過去かこ」があるから「現在いま」があり、「現在いま」があるから「未来みらい」がある。時間とは悠久の大河。
 その流れを反戦論者彼らは気付いていない──いや、判ってはいるが気付いていない振りをしているだけかも知れない。

 もし子供たちの未来を本気で●●●考えるなら、激動の現在いまを護り抜かなくてはならない。
 現在いまを守り抜けなかった敗北者に“権利”など許されない。敗北者は勝利者によって人間的生活すらも剥奪されてしまうのだ──敗北者に未来は無い。
 権利は勝利者だけに許された“特権”である。

 なので──、
 「平和」を欲するならば、有事に備えよ。
 権利を手にしていたいならば、有事に備えよ。
 家畜の如き扱いを受けたくなくば、有事に備えよ。

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