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「線」とは、スイッチなのかも…。

山本理顕さん、プリツカー章受賞おめでとうございます!

山本さんの代表的な建築物。

はこだて未来大学、埼玉県立大学、横須賀美術館などなど…。

とても素敵な建物

そして、著書。

法とは境界線のことであった。

ハンナ・アーレントの著書『人間の条件』を引用し、このことについて言及している箇所がある。

それは、家と家との境界線を通して、都市の領域に現れる。法とは、もともとこの境界線のことであった。

ハンナ・アーレント『人間の条件』/山本理顕『権力の空間/空間の権力』

この部分を読んで、はっとした。
「法」を線と捉えたことがなかったからだ。
そして、思い浮かんがイメージは、下記のような感じ…。

公共空間と私的空間の境界線としての法

私的空間から公共空間へ出て行くときには、自らのみに通ずるルールでわがままに振る舞うわけにはいかない。だから、法という境界線を通ることで、公共空間における「自己」のあり方を意識する。反対に、私的空間は、個人としての「自己」が最大限に保障される場である。だから、公共空間から私的空間へ入っていくときには、法という境界線を通ることで、私的空間における「自己」のあり方を意識する。
公共空間における自分と、私的空間における自分。

自分が切り替わるスイッチとしての境界線。

「線」とは公的な私と私的な私を切り替えるスイッチといえるのではないか。
このスイッチが切り替わらなければ、それぞれの空間における振る舞いにズレが生じることになる。

おースゴイ!

平野啓一郎氏の著書を思い出した。

「個人」ではなく「分人」
関係性によって、いくつもの自分が出現する。
読んだとき、「何がその自分を出現させるのか?」ということが気になっていたことを思い出した。

私は、自宅にいるときは、先生ではない。
私は、街を歩いているときは、先生ではない。
しかし、学校という空間においては、先生になる。
学校という空間に入る(=境界線を通る)際にそのスイッチが切り替わるのであろう。
また、生徒と出会ったときにも、先生になる。
生徒との関係性が生じる空間においても、先生になる。
関係性という空間に入る(=境界線を通る)際にそのスイッチが切り替わるのであろう。

線は、「何を分けるのか?」と分けることばかりを考えていたけれど、自己が何らかの「分人」を出現させるスイッチと捉えてみると、とても面白い。

たまたま、山本理顕氏のプリツカー章受賞のニュースを知った。
たまたま、著書の「法とは境界線」の部分に目がいった。
たまたま、「線」についてのnote記事を書いていた。
たまたま、平野啓一郎氏の著書を思い出した。
そして、疑問に思っていたことに光が差した。
なんと興味深いことだろう。

noteを書き続けてきてよかった。

今日も新しい気づきをありがとうございました。



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