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団地猫、雑感。

ひと月が経ちました

 保護した5月10日からちょうどひと月経った。昨日のNoteで『随分と迷ったけれど保護できてよかった』と書いたのにはワケある。どういうことかというと、『保護して』ではなく『保護できて』という言い回しを使ったことだ。
 結果として野良猫は保護されたことで命を取り止めたのは間違い無いだろう。でもそれは普通のココロを持ったヒトならば当たり前の話。自分で駆け寄り抱き上げ家につれて帰らずとも、団地の管理センターに電話するとか、保健所へ連絡相談するとか、保護団体を探して相談するとか、人それぞれやり方や考えは違うだろうけど、放って置くことはしないはずだ。
 だからオレが保護しなくても何らかの形で保護されていたかもしれないしそう願う。だから『保護できて』はオレ自身に対してラッキーな出来事だったと思えてるってコト。

 いやらしい言い方で恐縮だけど、この一ヶ月オレはこの野良猫の保護に随分な時間と費用を費やした。それでも全く後悔はなく、むしろ野良猫を保護できて幸せだったと思っている。普通ならできない経験を野良猫を通してさせてもらった。また団地猫と言う規則やルールの範囲外で暮らす、猫や餌やり住人の実情も知ることができた。又、おこがましいが、たくさんの猫好きの人たちの『猫愛』に感動した。

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猫の映画なんか興味なかったのに

 話は変わるが『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』という名の、2016年のイギリスの伝記映画がある。ストーリーは、ミュージシャンを夢見ていたものの社会からのドロップアウトを繰り返してヤク中になっていた若者ジェームズが、「ボブ」と名付けられた野良猫との出会いをきっかけに、家族や友人との関係を通して新たな生き方を探し出していくものだ。
 もちろんオレは若者でもないし、ヤク中でもミュージシャンでもない。猫に救われたというほどの心の闇も悩みもない。だが猫にいろいろなことを教えられた・感じさせられたというところで、すごい共感をもてたし感情移入した。実はこの映画、劇場でも観ていたのだが完全に忘れているほど、その時は印象にはなかった。

優しい世の中になってほしい

 今の時代、情報過多な上に、知りたいことは簡単に目にすることはできる。だからほとんどの人が、世の中が簡単に回っていて便利な気がしている。もちろんオレもその一人だ。ところがそんな世の中は、今回の自粛騒動で、まやかしだったり幻想だったところが多少なりともあると誰しもが気づいたはずだ。

 なにせマスク一つとっても簡単に手に入れることができないばかりか、人々はその不足している些細なモノを共有することができない悲しい性を持っている。所詮ヒトは奪い合うことを正当化したがる生き物だ。だから少しは不便な頃に戻らないといけない。一番大事なのは金ではなく命だと言うことを思い出さないといけないんじゃないかな。

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 そういう意味で「消えそうな命を救うチャンス」をもらったことは、本当にありがたい体験だ。そして今のデジタル時代ならではの恩恵は上手に享受しつつ、この歳で『目を背けるよりも受け入れるヒト』になれたのは、残りそう多く無いだろう自分の人生をとても豊かにさせてくれるものだった。

さて今日の傷の状況

 目や前脚の傷はもう大丈夫な域に入っていると思う。全身の掻き傷は、少しづつ治癒に向かう部分もあれば、新しく毛が抜けてしまい皮膚が剥き出しになってしまった部分も増え、なんとも痛ましいが、痒み止めが少しは効いているようで、過剰に掻き毟る時間は少なくなった気がする。でも、これだけひどい状態なのだから、人間なら気がおかしくなるほどの痒みだと思う、よく耐えているよ。

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毎日のルーティンとして夕方家に帰宅して買い物など一通り済ませると、まずは猫のケア。ケージから出すのが一苦労、そしてデスクの上に上げて処置をする。この時は大人しいのでずいぶん楽。そのあとご飯までの間、ケージに入れるか部屋に放すのだが、そうなると隠れて出てこないと言う感じだった。
 ところがここ数日猫の様子が変わってきた。まずケージから出るときに暴れないし抵抗しない、そしてご飯前に隠れていても準備をするとソロリソロリ近づくようになった。おかげでずいぶん楽になった。傷が治るには、まだまだ時間がかかるだろうが、根気強く付き合っていこう。

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宜しければサポートの程よろしくお願い申し上げます。いただいたサポートは全て団地猫の病院代・餌代、里親探しの費用に使用させていただきます。