「スーパーガール」本編
巨大化したウサギが街を襲う映像。凄まじい跳躍力と腕力で建物を潰し、人参でも食べるみたいに前足で軽々と人を掴んで口に放り込む。
地面に顔を押しつけられながら、私は朝テレビで見たニュースを思い出していた。
一年ほど前から、街で頻発している事件だ。ウサギが突然巨大化し、街に出てきて人々を襲う。小さな可愛らしい草食動物だったはずのウサギは姿を消し、赤い目をぎらつかせて獲物を狙う巨大な猛獣と化した。
そんな状況でも、学校での生活は前と何も変わらない。
私の頭を蹴りながらげらげら笑うクラスメイトたちが、だんだん、テレビで見た巨大ウサギに見えてくる。感情をなくし、本能のままに襲いかかる怪物たち。
「ねえなんか言ったら?」
「うっ……」
お腹を蹴られてえずく。ざらりとした砂の感触。酸っぱい胃液と血の味が口のなかで混ざって、涙が込み上げる。
ーーそのときだった。
ピンク色の何かが、目の前で揺れた。
女の子……?
「ショーは終わりだよ、クソブタども!」
妙な格好をした女の子はそう叫んで、クラスメイト三人を飛び蹴りで吹っ飛ばした。
何が起こったのか理解できず、私は呆然とする。
これは夢だろうか……。
彼女は振り返って
「いまの決まってた?」
と笑って言った。
ショッキングピンクの髪とライダースーツ。怪盗がつけていそうな黒いアイマスクに黒いブーツ。チェーンのついたバタフライナイフを手のひらで器用にクルクルと回している。
私と同じ同じ中学生くらいに見えるけれど、ナイフなんて持ち歩いていいのだろうか。本物ではないと思いたい。
「ありがとう……ございます」
小声で言うと、彼女は私の顔をじっと見た。
「なんかほかに言うことは?」
「えっ」
「こういうときって名前きくでしょ。映画とかで。あなたは誰? とかって」
「あ、あなたは誰……?」
少女は腰に手を当てて、ふふんと笑った。
「あたしはスーパーガール。超強い女の子よ」
そのままだった。
「私は日向……」
「日向かあ。いい名前ね」
「そうかな……」
いい名前なんて思わない。いつも名前負けだって言われるから。
褒めてくれたのは、過去に一人だけだった。
ーーいい名前だよね。のんびり屋の日向にぴったり。
そう言って笑った友達と目の前の女の子は、声も姿も全然似ていないのに、どこか重なって見えた。
土手の上を犬の散歩やランニングをしている人たちが通り過ぎていく。私の前を鼻歌を歌いながら歩く彼女のピンク色の髪は夕陽に染まり、ベールのようにきらきらと揺らめく。
前から自転車がやってきて止まった。近所のおばさんだった。
「日向ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
「どうしたのその格好。怪我してるじゃない」
「なんでもないです……転んじゃって」
「そ、そう。早く家帰って手当しなさいね」
おばさんは何かを察したように、苦笑いを浮かべて去って行った。
のどかな夏の夕暮れ。遠くのほうから聞こえてくる銃声が嘘みたいだった。
「これ可愛いー! 日向に似合うよ!」
サチがふわふわしたニットのワンピースを私の体にあてる。
「日向、顔は可愛いんだから。もっと自信持って!」
「とりあえず試着してみなよ。ねっ」
「う、うん……」
三人の態度の変わりように、私は戸惑っていた。
学校帰りに買い物やカラオケに行ったり。サチの家でお泊まり会もした。アイドルの動画を見てダンスを踊り、おそろいの部屋着で写真を撮った。
友達とこんな風に過ごすのは久しぶりで、なんだかずっと前から彼女たちの友達だったような気がしてきた。いじめられていたことなんてなかったかのように、記憶から消していった。
でも、いじめがなくなったわけではなかった。
サチがクラスメイトの顔をサッカーボールみたいに蹴り飛ばす。ミナとユキがそれを見て笑う。
「う、うっ……」
クラスメイトが泣いている。紫色に染まった目。腫ドロドロに汚れた制服。それは、少し前までの私だった。
「日向もやりなよ」
サチが言った。
「でも……」
「どうしたの。簡単でしょ」
いじめられないためには、私も同じになるしかないのだ。
ごめんなさい……。
クラスメイトが泣きながら私の顔を見た。恐ろしい怪物を見るような目だった。
その顔が、ぐしゃ、と潰れた。
テストが終わり、クラスのみんなでカラオケに行った。
「日向」
とコウくんが隣に座って、声をかけてきた。最近、たまに話すようになった男の子だ。
「あのさ、よかったら今度、映画とか行かない? ……二人で」
私は驚きつつ、行きたい、と言った。
「ほんと? やった」
コウくんが観たいと言ったのはヒーロー映画だった。
それで私は、久しぶりにあのピンク色のヒーローを思い出した。
不思議な女の子だった。あの日から、私の日常は変わった。俯いてばかりいた私はもういない。
でもときどき、ふと現実に返って絶望感に襲われる。
私は最低だ。だって、あの三人は……。
あの子がいまの私を見たら、どう思うだろう。
軽蔑するだろうか。
だけど、いじめに怯えることのないこの平穏な日々を、自分から手放すことができなかった。
待ち合わせの場所に行くと、コウくんはもう来ていた。
「じゃ、行こっか」
「うん」
街のあちこちに廃墟が目立つ。屋根のない飲食店。ガラスが割れた商業ビル。全部巨大ウサギに襲われた跡だ。
「あの、ここって……」
「ん? 近道だよ」
コウくんが入っていったのは、もう営業していない映画館だった。
カウンターの奥にサチたちの姿を見つけて、私はようやく気づいた。
最初から、映画を観るつもりなんてなかったんだ。
「コウ、おつかれー」
「本気で誘われたと思ったー?」
笑い声が薄暗いロビーに響く。
何を勘違いしていたのだろう。友達なんて、なれるわけがなかった。
遊びに行くとき、お金を払うのはいつも私だった。お泊まり会で撮った部屋着姿の写真が、私のところだけ切り取られてネットに載せられていた。
ーー日向もやりなよ。簡単でしょ。
言葉の通じない、恐ろしい怪物を見るようなクラスメイトの目。私は、できなかった。
ーーそっかあ。日向は優しいね。
サチは笑って、クラスメイトの顔を踏みつけた。
サチにとって、優しいはいくじなしと同じ。一緒にいる価値もない存在なのだ。
「じゃ、俺はもう行くから」
コウくんはそう言って扉を開けた。
くすんだガラス扉の向こう側から、大きな赤い瞳が二つ覗いていた。
巨大ウサギは、姿が見えると襲ってくる。大きな白い前足がガラスを突き破り、コウくんの頭を引きちぎった。
サチたちは悲鳴をあげて奥へ逃げて行った。
私も逃げなきゃ。でも足が震えて動けない。
大きな赤い瞳が私を見た。前足が目の前に迫ってくる。
「嫌……っ」
とっさに目をつむった。そのときだった。
「ショーは終わりだよ、クソウサギども!」
聞き覚えのある声がして、目を開けた。
暗がりでもわかるピンク色の髪とライダースーツ。何かの映画で聞いたような決めゼリフ。
「いまの決まってた?」
巨大ウサギをロープでぐるぐる巻きに縛りあげながら、スーパーガールは言った。
「うん」
と私は言った。
「映画に出てくるヒーローみたいだった」
あのときと同じだった。自分よりも大きな敵に立ち向かう「超強い女の子」。
ゴウン、と建物の外で大きな音がした。別の巨大ウサギが暴れているのかもしれない。
「日向」
スーパーガールは私の手をとって言った。
「誰の心の中にもヒーローはいるよ。本当に辛いときは、苦しくても逆転するヒーローを思い出して。そうしたら絶対に、負けないから」
「それって……」
その言葉を前にも聞いたことがあった。
私は、この子を知っているーー。
恐怖から解放されて、体からすうっと力が抜けていった。
「あたしにはまだやることがあるから」
意識が途切れる直前に聞いた、スーパーガールの最後の言葉だ。
目が覚めたとき、私は自分の部屋にいた。
「あんた、玄関の前で寝てたのよ。びっくりしたわよ、もう」
目が覚めてから、母が呆れたように言った。
ピンクのスーツを着た女の子を見なかったか尋ねたけれど、母は「さあねえ」と首を傾げるだけだった。
スーパーガールは私にしか見えていなかった。
サチたちも、近所のおばさんも、奇抜な格好をしたあの子を見ようとしなかった。あえて見ないようにしていたのかと思ったけれど、そうじゃなかった。見えていなかったのだ。
スーパーガールは、私がーーいや、私たちが創ったキャラクターだったのだから。
それは、千影の思いつきからはじまった。
ーー私たち二人で漫画を描こうよ。
ーー漫画?
ーーうん。女の子が巨大ウサギをバッタバッタ倒してくの。決めゼリフは『ショーは終わりだよ、クソウサギども!』
ーーそのセリフ、どっかの映画で聞いたことある気がするけど……。
ーー細かいことはいいの。ね、楽しそうでしょ。
千影は私の親友だった。昔から気が弱くていじめられることが多かった私をいつも守ってくれた。でも、そのせいで、千影までいじめられるようになってしまった。
千影へのいじめは日に日にひどくなっていった。私が受けていたはずの暴力を、千影が一人で受けていたのだ。
泣くことしかできない私に、千影は傷だらけの顔で笑った。
ーーこんなの全然平気。それより漫画描けた? 次、日向の番だからね。
空想の中で私たちは一度も負けなかった。どんなに苦しい状況でも、私たちのヒーローは決して諦めなかった。
でも、現実の私たちは、負けてしまった。
一年前の冬。雪が降った日。
千影がビルの屋上から飛び降りて死んだ。
『ごめん。もう終わりにしよう』
携帯に届いた千影の最後のメッセージが、スーパーガールの決めゼリフと重なった。
ーーショーは終わりだよ、クソウサギども!
空想は所詮、空想でしかない。存在しないものが現実に勝つことはできなかった。
私は漫画を封印し、千影の死さえも、記憶から消そうとした。
そんなこと、できるはずがなかった。
私はあの三人を、いっときでも許すべきではなかった。
私たちのヒーローは、まだ、完全に消えてないなかった。
スーパーガールの強さは、現実を超えた、現実さえも変えてしまう力だった。
私は一年ぶりに机の引き出しからノートを取り出した。千影とあれこれ言いあいながら考えたことを思い出して、開いたページに涙が落ちた。
漫画はノートの途中で終わっている。
それから私は猛然と漫画を描きはじめた。
ピンク色のヒーロー。苦しくても逆転する超強い女の子の物語。
『スーパーガール』
ーー誰の心の中にも、絶対にヒーローはいるよ。本当に辛いときは、苦しくても逆転するヒーローを思い出して。そうしたら絶対に、負けないから。
あれは前に、千影が私に言った言葉だ。
私たちに必要なのは、何があっても負けないと思わせてくれる、心の中のヒーローだった。
千影がそばでアイディアを出しているのかと思うほど、頭の中からどんどん物語があふれてきた。
夜じゅう夢中で描き続け、窓の外が明るくなる頃、ようやく漫画が完結した。
戦いが終わった。スーパーガールが巨大ウサギを倒し、街には平和が戻ってきた。
翌日。教室は朝からざわめいていた。
「ウサギにやられたらしいよ」
「廃墟に残骸が残ってたって」
「うわあ……悲惨……」
担任の教師がやってきて、教室を見渡してから、重々しく告げた。
「昨日、このクラスの生徒が、命を落としました」
しん、と教室が静まり返る。
「コウが廃墟で発見され……サチ、ミナ、ユリが、自宅で亡くなったと、連絡がありました」
誰かがすすり泣く声が聞こえた。泣き声は広がり、ほとんどの生徒が泣いていた。
スーパーガールは最後に言った。
ーーあたしはまだやることがあるから。
漫画の中で、スーパーガールは巨大ウサギを倒し、街には平和が戻ってきた。
でも、私たちにとっての平和は、巨大ウサギが街からいなくなることじゃなかった。
あの三人が私たちの前からいなくなることだった。
私のほかにもう一人、泣いていない女の子がいた。
三人にいじめられていた子だった。
私と彼女は目配せをし、誰にも気づかれないようにそっと笑みを浮かべた。
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