サービス化するつながり 2. サービスの手段性と消滅性

「サービス化するつながり」と題していることからわかる通り、この言葉は、つながりはサービス化されるべきでないという価値規範を含意している。それでは、本来的に望ましい姿である「サービス化していないつながり」とは何か、また、サービス化することの何が問題であるかを考えよう。

サービス化していないつながりは「人間的で豊かな人間関係」くらいのニュアンスで定義する。これは、アリストテレスの考える友情の定義と同義と捉えて問題ない。その要件を簡単に言うと「お互いが相手に対して関心を持つこと」であり、善良な関心と双方向性が重要な要件といえる*1。

では、人間関係に「サービス」の特性を加えると何が起こるのか。サービスの特性は無形性や異質性など、さまざま挙げられるが、ここでは、サービスの目的充足のための手段としての性格(以下、手段性という)、および消滅性に着目する。手段性は、目的が手段に先立つことを意味し、目的達成が最大の価値であることを示す。また消滅性は、発生と同時に消えてしまい、状態を保ち続けることができないことを意味する。

お互いに善良な関心を寄せるような人間的で豊かな人間関係が、手段性を帯びて継続することはありえず、また、即座に生まれ、即座に消滅することなどあり得ないことが直感的に理解できるだろう。このことからわかる通り、サービスとしての性格を帯びたつながりには人間的な温かみは存在しえない。外形的には友達らしき体をとっても、どこか表面的で、そこに信頼はなく、あなたにとっての私も、私にとってのあなたも、"one of them"でしかない。先のアリストテレスの考える友情の定義に照らすと、人間的な善良な関心が抜け落ちており、サービス化したつながりは彼の定義からしても友情とは言えないだろう。

とはいえ、サービス化したつながりの存在を現代の日本から完全に消し去ることが不可能であることも、サービス化したつながりに一定の存在価値があることも、認めざるを得ない。そうだとすると一体何が問題なのか。あえて遠回りして「サービスとしての人」を紐解きながら考える。

*1 『友情の哲学ー緩いつながりの思想』(あとでちゃんと書きます)

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