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子育てについて採用してる考え方とか

我が家(というか俺)が子育てについて採用している考え方などを覚え書きのように書いていく。

あくまで考え方であって、実践できてるものもあればできてないものも沢山あるし、なんか偉そうに感じたら、それはすません。

前提

家族構成はこんな感じ。

・妻(31)     :自営のデザイナー、在宅
・夫(32)    :自営のWebマーケター、在宅
・長男(2歳8ヶ月):車が好き
・次男(1歳3ヶ月):食べるのが好き

子どもたちは平日の日中保育園に行っているので、大人たちは9-17時で働いてるです。

親家族は近くにはいないので、基本的に夫婦2人で、たまに近所にお友達たちに助けられながら子育てをしています。

「父は仕事、母は子育て」という役割分担はせず、2人とも仕事して、2人とも子育てしています。

僕もめちゃ子育てするけど「イクメン」という概念は取り入れてなくて、シンプルに夫婦平等に生きているだけな感じ。

大人の都合では怒らない

基本的に大人の都合で怒らないようにしている。例えば、

・ご飯食べる時に手づかみして投げる
・引き出しの中を漁って散らかす
・公共の場で奇声を発する

など、子どもと生活しているとこういうことが日常茶飯事であるw(よね?)

こういう時に怒ったり、叱ったりしないようにしている。というのも、ここで叱るのは「子どもの為」ではなく「自分の為」だから。

こどもが「ご飯をちゃんと食べられるように」ではなく、「散らかったご飯を片付けるのが嫌だから」もしくは「自分が作ったご飯を食べてくれないのが悲しいから」とか、引き出しを片付けるのが面倒だから、他の人に迷惑かけて恥ずかしい思いをしたくないから、とかとか。

「子どもの為」と思っていても、意外と自分の為なことって結構あったんだよね。ぼくの場合は。

(書いていて思ったけど、これは子どもの年齢によっても考え方変わるかもね。今はあくまで1~3歳の乳幼児期の想定で書いてる)

だいたいのことは20歳くらいまでにはできるようになるからOK

子どもが座って食事しないとか、偏食で野菜食べないとか、お風呂入ろうとしないとか、出来ないことはたっっくさんあるんすよね。

で、毎回毎回それを矯正してやらせてたらお互い気持ち的にまいっちゃう(し、そもそもする必要がない)ので、「大人になるまでにできるようになるからOK」って思っている。

座って食べられなくても立って食べられてるのならばOKだし、野菜食べなくても健康で育ってるならOKだし、お風呂入らなくても元気に育ってるならOK、という感じ。臭いけど。

というか、「せねば」を手放すとこっちがめっちゃ楽になるんだよなーと思いました。

「ご飯をきれいに食べさせなきゃ」と思ってると思い通りいかない現実にめちゃイライラしちゃうけど、それを手放せると「後で片付ければOK、楽しくやってくれ!」ってなる。

この子が大きくなった時にはカレーなんて投げてないだろうし、今きれいに食べてなくてもまったく気にする必要ないよね。

子ども中心ではなく、自分中心

ぼくは自分の人生・生活の中心に子どもは置いていない。

もちろん、子どもは自分にとって大きな存在なので子ども抜きに生活を考えることはできないし、現実的に子どもがいることの制約はある(そりゃそうよね)

けど、「子どものために自分を犠牲にする」とか「子どものために我慢する」とかを当たり前にしない。子どもを預けて遊びに行く、とかめっちゃ良いと思う。

「我慢」を見せるのではなく「楽しむ」のを見せたい

正しいより楽しい

子どもといると、何が正しいのか?とか考えるけど、正しさは尺度一つでどうだって変わるもの。

例えば遊び食べ(遊びながら食べること)だって、「お行儀よく食べた方が良い」という尺度なら✕だし、「子どもはのびのび育てた方がいい」という尺度なら◯になる。

今の常識に合わせても今後時代とともにその常識も古くなるので、だったら大人の尺度に当てはめようとしすぎず、楽しくあってほしいな〜と。

意見をぶつけず、共感する

これ、めっちゃ効果ある考え方でした。

例えば、子どもが「お風呂入りたくない!」と言ってる時に「お風呂入るよー!」と言ったり、「お風呂入らないと臭い臭いになっちゃうよ!」とデメリットを提示してみたり、「もう知らない、パパ先に入るから1人で入ってね〜」と脅してみたり、、。。こんなシチュエーション、全親が経験してますよね????

これって、構図的に子どもは「お風呂入りたくない」と思っているのに対して「お風呂入れ!」とぶつかっている状態。

子どもの要望 →← 親の要望

という感じでぶつかっているわけで。

こういう時って子どもは「お風呂に入りたくない」のではなく、「親に共感して欲しい」って思ってるそうです。(なんかで書いてあった)

だから、「お風呂入りたくない!」に対して「お風呂入って!」とぶつけるのではなく、「そっかーお風呂入りたくないのか😌」と一旦受け止めてあげる。「めっちゃ分かる、パパもお風呂入りたくないもん」「お風呂、どのくらい入りたくない?パパこーーーーーーーーーーんくらい入りたくない!!」(と頭振りながら言ってふざける)

みたいな感じで、まず共感して、そこから楽しい気持ちにさせてあげるとそのあとすんなり入ってくれることが結構ある。(失敗することも結構あるw)

↓のツイートとかはこの考え方で書いてた

というかさ、よく「相談」とかでも「人が欲しいのは解決策(正論)ではなく共感」とか言うわけで、子どもも大人もおんなじだよね。

ナッジを使う

「ナッジ」(NUDGE)という概念があるらしく、最近知った。

ナッジは行動経済学の用語で、直訳すると「ひじで小突く」という意味らしい。ざっくりの理解で説明すると「直接お願いするのではなく、相手が自発的に行動するようにデザイン・声がけする」こと。(たぶん)

具体的には、

・スーパーのレジ前に足跡のイラストを描いて一定間隔で並ばせる
・トイレに「いつもきれいに使ってくれてありがとうございます」と張り紙する

などなど。これって子育てにもめちゃくちゃ使えると思っていて

まだ練習中だからあんまり良い例はないんだけど

・おもちゃで遊んでてご飯食べたくない子どもに対して「このおもちゃを一列に並べたらご飯食べていいよ!」っていう(目的の報酬化)
・「パパより先に靴を履けた人だけが車に乗れまーす」(目的の報酬化)
・「弟お風呂に入れるの手伝ってー!」という(頼る)
・ご飯運ぶの手伝ってもらって、その流れで一緒に食べる(目的の1歩前を目的にする)
・靴を履かない子に、別の子の靴を持って「これ●●くんの靴?」と聞く(→「ちがう、僕のはこっち!」って言って履き始める)

みたいな。ざっくりの理解なのであってるか知らないけど、子どもの要求に正面からぶつからず、いい感じに自発的に行動するように声掛けする。

これできたら最強じゃね!?と思い、最近は毎日考えて試してます。(頭の体操してるみたいで大人もわりかし楽しい)

子どもも楽しいし、大人も楽しいし、マスターしたらめちゃ良いな〜と思うのでこれは継続して取り組んで行こうと思っている。

「育てる」という意識はあまりなく、「一緒に生きる」くらい

ここまで「子育て」という言葉をたくさん使ってきたけど、実は「育てる」という感覚はまだあんまりないんだよな。ただ一緒に生きているだけ。

もちろん、経済的に養っているし、世話もしてるし、社会と接続されるための学び(変な言い回しw)は提供するわけなんだけど、育てるという感覚はない。

もともと「子ども」に興味ある人間ではないし、「教育」についてもよりフラットで教え込みがない、放任的な価値観があるからそうなってるのかもしれない。


以上、子育てについて考えてることとか、採用してる考えとかでした。

書いてみて、自分で「子どもとの関わり方」について言語化することないし、人のを改めて聞くこともないよな。など思いました。なんかあったら教えてね。

おしまい!!

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