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瞑想中に降りてきた「何が怖いんやろなあ」

2023年2月14日(火)🌗23.3 🌥6:30-17:21
24:立春 72:魚上氷(うおこおりをいずる)

とうとう、夜明けが6時半になった。

昨日、通勤電車のことで、ぺしゃりと凹んだ。
駅の手前で止まりそうになる、いつものアレで。

私はガラガラの下り電車で通勤しているのだが、昨日は上り電車の影響で遅延していた。
ダイヤの乱れ怖いマン、しかも雨なので、ちょっとゾワゾワしながら、たまたま来た急行に乗る。
急行でひと駅目のD駅はホームが地下にあって、少し手前からトンネルにもぐる。
私は後ろから2両目に乗っていた。電車が徐行し始めたとき、おそらく先頭車両はもうトンネル内にあっただろう。電車はゆっくり時間をかせぎながら(たぶん前の電車との距離を測りながら)、少しずつトンネルにつっこんでいく。
このままでは、私が乗っている車両も、地下で停止してしまう、停止するなら地上に出ている今のうちにしてくれ!
(ちなみに、この路線に車掌さんはいない)

と思っているうちに電車は速度を取り戻し、まもなく普通に駅に到着してドアが開いた。過去にどれだけシミュレーションしていようが、数々の「駅間停車の時はこうするメモ」を見返そうが、「さてどうする、どうなるか」の状態に置かれると、まったく何もできずに冷や汗をかき心臓をバクバクさせながら、事態が改善することを祈るばかりなのだった。

何年繰り返しているんだこれを。私は。12年半か。

そして思った。この特定の恐怖に関してだけいえば、瞑想で改善するようなものではない。
状況を「安全」「挑戦」「圧倒」で分けると、改善に取り組んでいいのは「挑戦」までの領域で、この恐怖症は完全なる「圧倒」の領域にあるのだ。

ではどうするか。毎日マインドフルネス瞑想をやっているから瞑想して乗り切ろうとか考えても無駄。そのまま受け止めようとしても無駄。

ただ、アクセプタンスまではできなくても、「怖くなくなろう」という無駄な抵抗はやめる。
そして、あとは「動く」しかないだろうと思った。席で、できる限りの運動をする。システマ呼吸とかいうのもよさそうだ。フーッフーッと運動する時の呼吸をする。安らごうとするのは無理。ごまかせれば上等だ。

ホットケーキミックスと板チョコで、軽めの食感。

無力感をおぼえながらも、今朝も10分だけ瞑想をする。すると、ふと、
「何が怖いんやろなあ」という言葉が降りてきた。
(西の言葉なのは、直前まで見ていた朝ドラの影響と思われる)

これはとても大事な言葉のような気がして、(本当はよくないらしいけれど)瞑想を中断して思わず書き留めた。

「何が怖いんやろなあ」

怖い時、「怖いよー」とこっそり声を出すと、ちょっと楽になったりもする。
では今後、昨日のような場面で、「何が怖いんやろなあ」をつぶやいてみてはどうか。
いや、これはマントラとして繰り返しつぶやいて自分に聞かせるのはどうか。

「何が怖いんやろなあ」は、「怖くない」「私は安全」などと言い聞かせるのとは違って、怖いことが前提にある。
いっぽう、「怖いね、よしよし」というセルフコンパッション的アプローチは私は苦手なほうで、はまることもあるが、普段はしらけることが多い。
「何が怖いんやろなあ」は、寄り添ってもいるし、客観的でもあるし、怖いのを受け入れたうえで、問いになっている。音声にして、言葉として問い続けることで、はて、本当に何が怖いのか、と、私の脳はきっと問うてくれると思うのだ。

できれば、うちへ来たばかりのスイちゃん(写真冒頭)が、何も危険がないのに、人が来るだけで猫ハウスに隠れてしまっていた、あの頃に心底感じた「何が怖いんやろなあ」を、発したい。
「なんでこんなことが怖いの?」とバカにする言い方ではなく、何かを怖がって泣いている幼児にオロオロしながら「何が怖いんやろなあ」と発する母の言い方だ。

おそらく、10回のうち9回は変化なしだと思う。が、1回くらいぽこっと、「たしかに、私何が怖いんやろなあ」と、恐怖が数割オフになることもあるだろう。
それを何年もかけて増やしていく。たぶんそういうことになるんだと思う。

知らんけど。







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