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卵を割るのが下手になった理由を考える

2022年8月6日(土)🌓8.4⛅️4:53-18:41
24:大暑  72:大雨時行(たいうときどきにふる)

 「大雨」とはここでは夕立のことらしく、昨日の水害級の大雨とはまた違うよう。私の実家がある金沢市西部もかなりの雨で、私は金沢市のライブカメラを見ながら仕事をしていた。犀川は岸の歩道ぎりぎりまで水が迫っていて、その下流(支流)のそばにある実家は危ないのではないかと思ったが、意外にも冠水したのはもう少し上流だったようだ。どんな災害もそうだが、場所がわずかにずれるだけで、ほとんど何も起こらない。

 それにしても、金沢は災害が少ない。昭和38年の「三八豪雪」は建物の2階まで積もる凄まじいものだったらしい。当時金沢に移住して間もない父がたくさんの記録写真を残してくれているが、どうやらそれ以来、災害らしい災害はない。

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 昨日今日は人間的な暑さ。私が子供だった頃の夏の暑さだ。久しぶりにエアコンをつけず網戸にすると、猫たちも外の景色を見ることができる(うちは古いマンションで、ほとんどの窓が磨りガラスなのだ)。久しぶりに隣の公園で子供が遊んでいる声が聞こえる。そして不思議なことに、蝉はこれくらいの気温のほうがジョワジョワと元気だ。35度を超えた日の外の異様な静けさはこの世の終わりのようで、時折断末魔の叫びのようなミンミンゼミの絶叫が聞こえるのみだ。

 画像は毎年恒例、夫の実家の浜松から送られてくるメロン。一玉を二人で食べ切るのはなかなか大変だ(私はあまりメロンが身体に合わない感じもする)。メロンは切ると3倍くらいに増える。冷蔵庫がいっぱいになる。ちなみに、私がオンラインで参加している瞑想&ヨガのサロンは「MELON」という。メディテーションサロンの略。いいネーミング。

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 雑記で長くなってしまったが本題。表題のことをここ数か月考えていた。私は卵を割るのが下手だ。ほとんど殻が混入するか、ぐしゃっとつぶれる。そのたびに、マインドフルネス などとは程遠い自身の雑さにうんざりする。

 かつて私は卵を割るのが上手かった。20代の頃、一時期あるカフェの雇われ店長のようなことをしていて、その時焼き菓子も作っていたのだ。毎日3〜4個の卵を割る。そうしているうちに、いつの間にか誰に教えられるでもなく片手で割るようになっていた。そのほうが効率的だからだ。

 卵を片手で割れた私が、どうしてこんなに下手になったのか。理由を考えていると、それが「結婚してから常に付きまとう料理への憎しみのようなもの」と繋がってきてしまい、暗澹たる気分になった。

 なぜこんなに日本人女性は料理をしなければならないのか。料理のためにそれ以外の人生を諦めなければならないのか。
 何度も各所で書いてきたのでここではあまり書きたくないが、その不条理への怒りは結婚して十数年、消えたことがない。私はほぼ毎日、「こんなことのために生まれてきたわけではないのに」と思いながら台所に立つ。どんな仕事よりも苦痛である。夏休みの宿題のように、一刻も早くすませたい。義務感でしか料理をしていないから、こうなるのだろうなと思った。

(実際には料理は、私も含め、皆が身の回りのこととして、できてしかるべきであるというのが正しいのであり、私だって逃げられはしないのだ。ただ、女性への偏りと、高いレベルを求められすぎる日本の食事情が間違っていると思う。なお、仕事として行う料理や製菓に苦痛は一切感じなかった)

 などと考えながら、試しにいつもよりゆっくり卵を割ってみる。そこではたと気づく。私はまな板の平面で卵を割っていると。

 「卵は何かの角で割ると、殻が内側に入って混入する。平たいところにぶつけて割りましょう」。どこかでそんなことを聞いて以来、私は極力平面で割るようになっていた。もしやその中途半端なTipsがあだとなっているのではないか。げんに平面で割ったほうがうまく割れず、仕方なく指を使うなどの補助的な動作をして、その結果、殻が混入したり、黄身がつぶれたりしているのだから。

 昔片手で卵を割れた頃は、そんなこと気にせず角で勢いよく割っていたのだ。というわけで、今日、昔と同じように角でカーンと割ってみた。普通にきれに割れた。なんだ。もしかしたら微細なレベルでは殻が内側に混入しているのかもしれないが、もうこれからは再び遠慮せずに角で割ろうと思った。私の心の奥深くに常に横たわる怒りは特に関係なかった。たぶん。

 

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