東洋思想を使って頭をよくする

東洋思想を使って頭をよくする

・「いい」の反対は「悪い」?

 「いい」の反対は「悪い」か?

 「いいの反対は悪い」と考える事もできる。

 しかし「いいの反対は悪い」でないと考えることが出来る。

 後者の考え方から新しい認知の仕方を習得することが出来る。

 新しい考え方を習得することはそれ自体が認知機能の向上につながる。

 物事はいろんな考え方で考えれるようになった方が認知機能が高い。

 1つ新しい物事の考え方が増えれば分かり易くその1つ分だけ認知機能が上がる。

 スペックが高くなくても新しいスマートフォンのアプリをインストールすることでスマートフォンの新しいスマートフォンの使い方ができるようになるのと同じだ。

 頭をよくするためにはスペックを上げる必要はない。

 もちろんスペックが上がれば頭がよくなったと言えるだろう。

 しかし新しい考え方を身に着ける事でも頭をよくすることが出来る。

 たとえて言えば前者はコンピュータのスペックを上げることで後者はコンピュータに新しいソフトを入れることだ。

・「いいの反対は悪い」ではない考え方

 「いいの反対は悪い」とする考え方で認知構造を構築することが出来る。

 物事はいろんな考え方が出来るものだ。

 「いいの反対は悪い」で有用で使える思考方法、あるいは論理構築が出来る。

 その一方で物事に対していろんな見方や考え方が出来た方が頭がいい。

 「いいの反対は悪い」ではないという見方や考え方、あるいは論理構築もできる。

 新しい考え方を増やせるのでその方が頭がよくなる。

 新しい考え方が1つ増えるからだ。

 この研究は東洋思想で進んでいる。

 西洋思想では現代思想のポスト構造主義でこの考え方が新しい方法として使われている。

・中の思想

 東洋思想は中を研究した。

 特にインド人は徹底していた。

 中庸、中道、中華、中国など東洋思想では「中」を重要なものとする。

 中庸は中国の思想で中道はインドの思想だ。

 中庸と中道は違うものだ。

 論理性が突き抜けているインド人の方が中の研究が徹底している。

 大乗仏教は中道の思想だ。

 中道を成り立たせるために空という思想もある。

 「空と空でないものの間をとれ」というのが大乗仏教だ。

 「間をとれ」というのは中庸の思想でもある。

 中庸と中道は紛らわしいが違うものだ。

 中庸はふわっとしているが中道は明晰だ。

 後者はそれ自体が学問で一つの理論体系を作り上げている。

 中庸については詳しくないのでふわっと触れることにして中道の解説を主に行う。

・「好き」の反対は「嫌い」か?

 昔、マザー・テレサという偉い人がいた。

 カトリック教徒で慈善活動を行った。

 ノーベル平和賞も貰っている。

 だいぶ前に死んでるから若い人には有名ではないかもしれないが昔は有名人だった。

 20年以上前にインドに行った時にはインドのカルカッタ(コルカタ)というところで慈善活動をしていた。

 カルカッタは昔のイギリス人が「世界で一番汚い所」といった都市だ。

 インドでバックパッカーをしていてサダルストリートというバックパッカー街に滞在していたがバックパッカーたちがテレサ・ハウスというところに行くのが流行っていた。

 マザー・テレサがカルカッタのスラムで慈善活動としていたようだ。

 マザー・テレサは明言を残している。

 「愛の反対は嫌いではない、無関心だ」というものだ。

 「好きの反対は嫌い」これは我々が発達の過程で身につける思考だ。

 多くの文化圏ではまず子供が身につけけるのはこの考え方ではないか。

 発達の過程で自然に身に着けることは直感になる。

 また先入観になる。

 男女関係のもつれで「私のこと好きじゃないのね!」と言われたらそれは言ってる方も言われている方も「私のこと嫌いなのね!」と解釈する。

 マザー・テレサはそうではないのかもしれない、だというのに気付かせてくれた偉大な人だ。

 「愛憎」「可愛さあまって憎さ百倍」という表現がある。

 「愛」の反対は「憎しみ」のような表現だ。

 こういう考え方しかできない人は普通にいる。

 こういう考え方しかできない精神障害もある。

 境界性/情緒不安定性パーソナリティ障害や統合失調症の一部がそれにあたる。

 精神病水準が高まるとこれの習性自体が困難になる。

 妄想の定義は「修正できない事」だ。

 これを修正するのが統合失調症の治療にもなり心理教育という。

 大人になるということは「愛の反対は無関心」であることを学ぶことでもある。

 思春期の心性は「好きの反対は嫌い」と思う傾向がある。

 これは被害関係念慮というものになりやすい。

 これが発展して修正不可能になると被害関係妄想になる。

 ここでいう「関係」とは色んなことを自分と関係付けてしまうということだ。

 「自意識過剰」な状態だ。

 これがこじれて後に統合失調症となることがある、というのが比較的新しい統合失調症の学説だ。

 統合失調症の二段階説だ。

 まず思春期頃に自意識過剰になってなんでも自分に関係付けて「人が自分のことを嫌っているのではないか」、関係ない赤の他人である人が「自分の悪口を言ったり、加害しようとしたり、否定しているのではないか」と思ったりする。

 実際には他人は他人に無関心だ。

 自分のことなんて何とも思っていないことが多い。

 他人が自分のことを意識しているのではないか、と感じるのは多くの場合誤解だ。

 実際には無関心だ。

 しかし思春期には他人が自分に関心を持っていると思いがちだ。

 自己愛や自己中心性を持て余す。

 生物学的、あるいは心理学的にこの時期には神経発達の異常があるのではないか、と考える。

 生物学的に異常があると見做す場合これを神経発達の異常と見做す。

 これが酷いと思春期に減弱した統合失調症の症状をきたすことがある。

 これをARMS(at risk mental status)という。

 ARMSは統合失調症の病前状態、あるいは前駆状態と見做される。

 統合失調症の実際の発症は20台が多い。

20歳前半が好発年齢と言われる。

ARMSを引きずるとこじれて本格的な統合失調症が発症する。

この段階では神経の変性があると考えられる。

統合失調症は不可逆的な病態でシナプス異常や脳の一部の異常が最近では分かっている。

つまり神経が変性するのだ。

これはある程度不可逆的な過程と考えられている。

だから統合失調症は慢性化や急性期再発の反復性が多い。

・二元思考

 「好きの反対は嫌い」をこじらせるとひどいことになりうるのが上記の例だ。

 これはある種の二元思考だ。

 世の中、あるいはもっと狭く人の自分に対する感情を「好き」と「嫌い」のどちらかに分ける事しかできない。

 白黒思考、0-100思考ともいう。

 ある種の精神障害の特徴だ。

 精神障害がなくてもこういう思考形式は日常生活、社会生活を行っていると自分や他人に見られる場面は多い。

・大人の思考

 世界は自分を中心に回っていない。

 人は自分のことなどなんとも思っていない。

 人は人に無関心だ。

 こう考えるのは寂しいことだ。

 「好きの反対は嫌い」としか考えられない人は時にこの寂しさに耐えられないからの場合がある。

 愛情に飢えている、自己愛が健全ではない、ちやほやされて育ったぼんぼんやお嬢、愛着障害を抱えている人はこの観念への固着が強く、ここから離れられないことがある。

 これがある種の精神障害の病理仮説でもある。

 大人になるということは無関心、無関係を知りそれに慣れる事、あるいはそれを肯定的に受け入れられるようになることでもある。

・仏教と愛

 仏教は愛の思想でもある。

 執着、渇愛、煩悩の思想だ。

 これは同じく仏教の慈悲の慈とは違うものだ。

 仏教の「執着を離れよ」「煩悩を滅却せよ」が上記と同じ意味か知らない。

 しかし同じ意味かもしれないし関係あるのかもしれない。

・中道、中観、中

 中道とはお釈迦様が言った言葉だ。

 中観は大乗仏教の開祖龍樹(ナーガールジュナ)の言った言葉で、龍樹の流派を中観派という。

 中とは天台智顗の言葉だ。

 中道と中観が同じものかは議論があるかもしれない。

 私はお釈迦様の思想と龍樹の思想は同じものだと思っているので同じと思う。

 龍樹の中観と天台智顗の中は明確に同じものだ。

 同じく龍樹の空の概念を含めて龍樹の思想をまとめた際に中観を中と呼んだ。

 これは「物事は実在する」と「物事は実在しない」という反対の見方、考え方のどちらもするようにしろということだ。

 またどちらが正しいとか間違っているとかはないということでもある。

 また正しいとか間違っているとかいう考え方自体をするなということでもある。

 どちらの考え方にも中立であるべきだ。

 中立であり正誤を決めつけず、必要に応じてどちらかの考え方を使ったり、両方の考え方を同時に使うようにせよということでもある。

 不可知論でもない。

 不可知論すらも中立的に扱えということだ。

 どちらも正しい、あるいはすべてが正しいとみて状況によって活用するイメージだ。

 あるいは状況に関係なくどちらの考え方も正しいと考える事でもある。

 同じくどちらの考え方も間違っていると考えてもいい。

 ここで「正しい」とか「間違っている」の定義が問題になる。

 中の考え方は「正しい」とか「間違っている」とかいう考え方自体をするなということでもある。

 論理学や数学ではこれを形式的な妥当性や健全性という。

 真偽や正確性、精密性とかとは全く違う、かつ独立した概念だ。

 「形式主義たれ」これが実は仏教の奥義でもある。

 小学校の息子の国語の塾の参考書に「心のこもっていない形式的な挨拶」という言葉が乗っていた。

 仏教の空の考え方では全ての物事や思想、イデオロギーを「心のこもっていない形式的な」ものとしてみる。

 では心は何かというと、真や心理、正確性や正しいことだ。

 また実在や実体、色、仮、戯作と呼ばれるものでもある。

・論理と排中律

 論理学では排中律と呼ばれるものがある。

 AであるかAでないかしかないというルールである。

 厳密には要素の集合全てについてAかAでないかに必ず分類されるというものである。

 集合が明確に定義されているのがみそだ。

 「集合の集合」のようなものを考えてそれもまた集合の要素として集合の集合でない要素と同じレベルで要素として扱うことが論理学では問題になった。

 これを行うとパラドックスが生じる。

 有名なものではラッセルのパラドックス、聖書の嘘つきクレタ人の嘘のパラドックス、ドン・キホーテの(パンチョを悩ました)パラドックス、床屋のパラドックスなどで、それ以外にもいくらでも事例を作成できる。

 それはともかく排中律というものが問題になった。

 現代数学は論理学の上に構築されており、論理学の主要なルールの中に排中律がある。

 排中律を使うと背理法を使うことが出来る。

 背理法は数学では非常に有用な方法だ。

 ただしこれを使うと直感的に奇妙なことがいろいろ証明されてしまう。

 これは認められない、ということで直感的論理学という排中律を排除した論理学もある。

・いいと悪いの定義

 本当は「いい」とか「悪い」という言葉を使いたければそれを定義しなければいけない。

 あるいは「いい」や「悪い」が成り立つ背景としての構造を明確に構築しなければいけない。

 これに恐ろしくルーズで無関心であったのが世界を席巻した近代主義、モダニズムの考え方だ。

 ルーズで無関心というより構造や形式という考え方がなかった。

 なかったと言って言い過ぎならはっきりしていなかった。

 結果言葉の使用や思考が適当だった。

 無矛盾性や完全性や独立性を無視する。

 この状態を最近の発達障害の研究、特に自閉スペクトラム症の概念の確立、普及以降は定型発達症候群と呼ぶことがある。

 現代思想はもっと辛辣でシミュレーションやシミュラークルと呼ぶ。

 本当は辛らつではないのだが通俗的には「紛い物」「偽造」のようなネガティブなニュアンスを含んでしまう。

 これではまるで「紛い物」でも「偽造」でもないものがあるように聞こえる。

 この言葉を使う場合には「紛い物」や「偽造」ではないものはないという意味で使う。

 全てが「紛い物」で「偽造」なのだ。

 とすると「紛い物」「偽造」であるものとそうでないものの善悪判断、いい悪いという考え方、つまり二元論が解消される。

 仏教もやはり誤解を招きやすい表現を使っている。

 天台智顗は仏教のエッセンスを三諦論というものにまとめた。

 これは三つの要素「中」「空」「仮=戯」からなりたつ。

 仮や戯というのがやや否定的に誤解されやすい。

 まあ空というのも否定的にとらえられることがある。

 私は熱心なクリスチャンに仏教は全てが空であるという考え方について質問されて答えて怒られたことがある。

 多分空と無の区別もついてないし、神や聖書が無と言われたようで腹が立ったのだろう。

 「空」というと「空っぽ」という表現がある。

 「中」というと「中途半端」という表現もある。

 仮や戯がネガティブな表現なら空や中もネガティブと見えないこともない。

 実体や実在という考え方は肯定的に取られやすいのかもしれない。

 「現実的」「写実主義」「リアリズム」というとなんかポジティブなイメージがあるようでもある。

 上の文章から分かるように別に仏教は「実」を否定していない。

 実を体系の1つの要素に過ぎない、としているだけだ。

 しかし往々にして実を否定して空を絶対化することがある。

 その過ちに陥らないために「中」という概念がうまれた。

・いいと悪いの見方

 ある物事をある角度、ある切り口、ある側面から見るとする。

 美醜としよう。

 美しいことはいいことで醜いことは悪いことだ。

 ルッキズムの人に怒られるかもしれないがここでは怒らないで読んでほしい。

 この場合数直線を使ってスケール化して見ることがある。

 美醜に限りはないかもしれないが仮に限りがあるとする。

 いうことのない美しさは+100、醜さは-100、どちらでもないものは±0とする。

 誰かの美醜を判断する場合に+100から―100までの間で数値で評価できることになる。

 プラスなら程度の差はあれいいこととされる。

 マイナスなら程度の差はあれ悪いこととされる。

 ゼロならどちらでもない。

 数力線を使わない場合もある。

 この場合は「美しい」「醜い」「どちらでもない」と三択にする。

 あるいは「美しい」「醜い」の二択にする。

 どの場合にせよ美しいことはいいこと、醜いことは悪いことになる。

・脱構築

 仏教や現代哲学では対象を徹底的に空と見たり中と見たり脱構築したりする。

 そのためにいいとか悪いとかを排除する。

 それは実用的、実際的には価値判断や感情を排除するためだ。

 経済学で言うトレードオフや機会費用的な考え方も本当は入れた方がいいので入れてみる。

 「美しいことにも悪いめんがある」「醜い事にもいいめんがある」

 という考え方を導入するのだ。

 そしてそう言える理屈をいろいろ考え提案していく。

 すると「美しいことはいいこと」「醜いことは悪い事」という固定観念から離れることが出来る。

 「美しいものにもいい面も悪い面もある」「醜いものにも悪い面だけでなくいい面もある」という考え方が生まれると新しい考え方がうまれる。

 ものごとを「いい」とか「悪い」とか判断しても仕方がないのではないか、意味がないのではないか、疑いを持った方がいいのではないか、いいとか悪いとかいうのはどういういみでいっているのだろうか、などだ。

 これが空や現代哲学の脱構築の手法の一つだ。

・複対立対象把握

 人を見る際には美醜だけでなくいろんな見方をする。

 「頭がいいか悪いか」「運動神経がいいか悪いか」「金持ちか貧乏か」その他もろもろ何でもよい。

 人間を複数の観点から見る。

また尺度してもよい。

プロファイリングといってもよい。

 尺度化する場合にチェックがつくかどうかでもいいし数値化してもよい。

 チェックがつけばいい事か悪い事か、数値が高ければいい事か悪い事か、と判断してもいいが上の方法を使うとチェックがついてもいい面も悪い面もあるし、数値が高くてもいい面も悪い面もあるとみることが出来る。

 複数の面から対象を見ている。

 しかもある面からの評価も単純には判断しない。

 簡単に言うと「いい」とか「悪い」とかいう見方をしない。

 してもいいがするにはするだけの必要性や目的および「いい」「悪い」の定義が必要になる。

 この手法を複対立的対象把握という。

 これは日本人論で有名だった評論家と聖書学研究家の山本七平氏の言葉だ。

 対象を絶対化したり対象に支配されないための方法として提案されている。

 これは現代哲学の脱構築の方法に使えるほか、現代哲学の構築にも使える。

 この方法で対象を生成できるしリアリティを感じるようにもできるからだ。

 「色即是空、空即是色」という般若心経の中の節がこれにあたる。

 仏教の因縁、十二因縁生起は空の思想だ。

 無から有が生じ、有から無が生じる。

 厳密には無明から有生老病死が生まれて、有生老病死は無明に解体される。

・中であるもの

 何かの中間に立てばあるいみ中だ。

 両方の物を等しい距離から離れて公平に客観的に観ることが出来る。

 これが中立だ。

 もっと複数、空間中に散らばっていれば、どこかに立てば全てを相対的に観ることが出来る。

 かりに全ての重心のような位置に立てばそれは中立であり中心だ。

 中心であることを自慢したければ中華と名付ければよい。

 道のように過ぎたるも及ばざるもない所に立てば中道と言える。

 中立、中間、中心からみれば中観と言える。

 全部中がつくから中とまとめてもいいかもしれない。

・中庸は別

 中庸は仏教の中系の思想とは多分別だ。

 多分バランスをとれくらいの意味だ。

 バランスをとるだけでも十分かしこえらいことではある。

 上品で礼儀にかなっているかもしれない。

・空

 空は四元素説の空とは違う。

 ヨーロッパのともインドのとも違う。

 仏教の脱構築や実に対する存在様態、認識様態の表現だ。

・メタと中

 メタは「~の後に」の意味だ。

 物質、現実世界の後に、背後にの意味でアリストテレスが形而上学metaphysicsと名付けたが、そこから~を超えた、高次の意味が加わったようだ。

 ラテン語ではpostになるからアリストテレスがローマ人ならポスト何とかと名付けたかもしれない。

 メタ認知という概念があるがこれもポスト認知でもいいかもしれない。

 むしろ「超」とか「高次」とか麗辞や感嘆的な表現をつけるより科学的でもあり正確でもあるかもしれない。

 ポスト構造主義のポストの意味は構造主義の後にという意味だが、この場合は高次構造主義とか超構造主義と名付けた方が正確かもしれなかった。

 つまりポスト構造主義ではなくメタ構造主義と名付けるのが良かったかもしれない。

 中、メタ、ポストはそういう意味でにている。

 間に立つにせよ、中心に位置するにせよ、後から処理するにせよ次元を増やさないといけない。

 次元を上げることが大切なのだ。

 出ないと混乱する。

 メタ認知とかくとかっこよさそうだが本当は認知を認知するので認知認知と書くのが性格だ。

 実はメタやポストの原義に帰って後認知と書いた方がクールで客観的でいいかもしれない。

・中の実践

 難しく書いても中は簡単な考え方だ。

 空が難しいのと比べて対蹠的だ。

 でも言われたり説明されないと分からないのできちんとした説明がいつようだ。

 使いこなすにはある程度訓練が必要だ。

 簡単なのだが言われないと分からないもので、世の中の誤解や混乱、或いは意図的な詭弁やプロパガンダにも使われるし、身に着けてないと悪くすると病気になる。

 思春期の中二病の自意識過剰の反抗期の粗鋼障害まである子供に「世の中はあなたが思っているほどあなたのことを気にしてない」みたいなことをいうのはいろんな意味で難しそうだ。

実際には「あなたが思っているほど」ではなく「全然無関心」なことが多いのだ。

 好かれているわけでもうざがられているわけでもなく無関心なのだ。

 愛されているわけでも憎まれているわけでも、好かれているわけでも嫌われているわけでもなく無関心なのだ。

 まだ無関心よりはまだ嫌われたり憎まれたりした方が人の心情としてはいいのかもしれない。

 だから愛がひっくり返って憎しみになったり好きがひっくり返って嫌いになるのだ。

 太陽と死は見つめることができないというが、自分が誰からなんとも思われていないという現実も正視しにくいものなのかもしれない。

 防衛機制ともいえる。

 人間が猫ではなく犬のように群れる動物である理由の一つかもしれない。


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