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部屋とセーラー服とアセクシャルと私

 気づけば、どこもかしこもクリスマス気分で、イルミネーションに彩られる季節になった。私が初めてnoteを投稿してから、もう1ヶ月も経過してしまったらしい。区切りが良いので、私の現状についてふわっとまとめて書き残しておこうと思う。

私というニンゲン

私は現在、クエスチョニングを自称している。自分の属性を細かく分類するならば、シスジェンダー女性で、ロマンティック・アセクシャル(ノンセクシャル)、デミロマンティック、クォイロマンティック、バイセクシャル周辺を彷徨っている、といったところだろうか。
 つまり、私の心と体の性別は一致していて、私は、恋愛感情は抱くが性的欲求がないかもしれないし、強い信頼関係を築く相手に対してのみ稀に恋愛感情を抱くのかもしれないし、友情と恋愛感情の区別が薄いのかもしれないし、同性にも異性にも恋愛感情や性的欲求を抱くのかもしれない、ということだ。
 「~かもしれない」ばかりで何もはっきりしたことはわからないじゃないか、と思った方もいることだろう。その通りである。大学進学以来、ずっと自分にどのラベルがあてはまるか悩み続けてきたが、終ぞ正解は見つからなかった。終いには考えるのが面倒になったので、絶賛迷子中のクエスチョニングを名乗るようになった次第である。

スペードのAに気がついた日

 現在、一般的には社会にLGBTQの人がいる割合は、およそ13人に1人だと言われている。真偽のほどは定かでないが、その数字を信用するなら、トランプの特定の数字を引き当てる確率と同じである。神経衰弱で数字をそろえる確率の方が低いと思うと、案外LGBTQの人々は身近にいると思えるようになるかもしれない。
 他者に対して、恋愛感情や性的欲求を抱かない、あるいは抱きにくいアセクシャル(Asexual)はイニシャルがAであることから、スペードのAで表現されることもあるという。私が自分の中にあるスペードのAに気がついたのは、大学1年生のときのことである

「彼女」との出会い

 私は、キリスト教系の女子校に通っていた。何十年も前からデザインが変わらない、古風なセーラー服が有名な学校だった。すべては、高校1年の夏に、ある少女に出会ったことから始まった。中途半端な時期に転校してきた彼女を当初私は遠巻きにしていたが、好きな作家が同じだと知ったのがきっかけで、瞬く間に意気投合した。ちなみに好きな作家とは、『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦先生である(期せずして先生のイニシャルもA)。
 毎日いっしょに昼食をとり、休み時間にはどちらかの席の近くに集まって談笑し、修学旅行のホームステイ先もいっしょ、という風に、気がつけば彼女と私は隣にいるのが当たり前になっていった。優柔不断な私に対して、はっきりした性格の彼女と、外から見れば正反対の2人だったが、だからこそ気が合ったのかもしれない。

自覚

 明確に彼女のことを想うようになったのはいつなのか、実は自分でもよく分かっていない。ただ、自分が彼女に抱いている感情は、友情とも少し違うのではないかと考えるようになったのは、高校2年生の頃であった。授業中に彼女の後ろ姿が目に入るとちょっとうれしかったり、LINEが来る度にうれしくて頬がゆるんだ。今までの友人には全く抱いたことがない感情だった。
 さらに、己の異常な執着心に気づいたのが、特別な感情を自覚したきっかけだった。女子高生にありがちな話だが、その頃クラスメイトたちと「もし将来結婚できなかったらどうする?」と、よく話していた。そんな折、彼女が「中学時代の女友達と、お互いに結婚できなかったら、いっしょに住もうねって約束してるの」と言った。その時、私は無性に悲しくなってしまった。自分は、ずっと彼女の隣にいることはできないのだと、彼女の特別にはなり得ないのだと突きつけられた気がしたからだ。「なんでその約束をしたのが私じゃないんだろう」と強く思った。そして、私は彼女のことが友達として以上に好きなのではないか?と気がついたのだ。

葛藤

 ひょんなことがきっかけで、自分の彼女に対する思いを自覚したものの、私は自分の感情をどう区分すべきかわからなかった。いや、正直なところ、今でもわかっていない。友人に対する強い独占欲なんて良くある話だ。女子校ならなおさら。
 私とて、「機会的同性愛」という単語を知らないわけではなかった。機会的同性愛とは、思春期に女子校や男子校など、異性との接触が制限された空間で生活することによって、一時的に同性に対して恋愛感情を抱くようになるという現象である。いわば、気の迷いである。身の回りには、ファッションレズと揶揄されていた人も確かにいた。卒業して異性と関わる内に、その「症状」は「治って」いくという。
 これは行きすぎた友情だ、ないしは機会的同性愛の一種に違いない。どうせ高校を卒業したら、この熱は冷めるし、普通に男の子が好きになるに違いないと自分に言い聞かせた。――恋愛感情のはずがない。勘違いだ。そう、心の中で何度も繰り返し、私は問題から目をそらすことに決めた。

救い

 浮ついたことなど考えないように受験勉強に打ち込む内に、あっという間に季節はめぐり、高校卒業を迎え、彼女と私は離れた地域の大学にそれぞれ進学した。会おうと思えば会えるくらいの距離感は私にとって非常に都合が良かった。高校を卒業してもなお、私の感情に変化は見られなかった。サークルの友人や学部の友人と、交友関係は高校時代の比ではないくらい広がったが、大切なものランキング第1位に彼女は相変わらず君臨し続けていた。彼女からの誘いであれば、一も二もなく2時間ほどかけて会いに行ったし、彼女とのたまの通話が至福の時間であった。
 ただ、変わらない気持ちこそが私の悩みの種でもあった。「もしかしたら私は本当にセクシャル・マイノリティなのかもしれない…」そんな考えがふと去来した。だが、レズビアンかと問われるとそうだとは言えない。彼女に対して性的な感情を抱いたことはなかったのだ。では、これはいったいなんなのか?私はどこに属するのか?と悩みばかりが深まっていった。そんななか、ジェンダー論の講義で「アセクシャル」という概念に出会った。アセクシャルの中でも、恋愛感情を持つ「ロマンティック・アセクシャル」こそ、自分に近いと思った。自分と同じような感情を持つ人が他にもいるという事実は、私の心を少し軽くした。

さいごに

 結局のところ、私は徹頭徹尾クエスチョニングである。自分に近いラベルを、見つけたものの、いまだにアセクシャルを名乗るほどの確信はない。そして、彼女に告白するつもりもない。彼女の隣にずっと居られるだけで私は満足だけど、この思いは彼女を困らせてしまうだろう。私の好きの中に、今のところ肉体関係は含まれない。ただいっしょに歩いて行ける人がほしかったのだと思う。だが、世の多くの人の好きには恋愛のABC(古い)がすべて含まれる。相手が望むものを私は与えられないし、逆もまた然りだ。だから、ただ、彼女の幸せを願うのみである。一刻も早くいい人つくって私の恋にとどめを刺してほしい。私もそろそろ自分の道を歩き出さねばならない。いつまでもセーラー服のあの日々にすがっているわけにはいかないのだ。

追記:この記事からだいたい一年経ったので、自分の現状を記してみました。人間は少しずつ変わっていくものですね。

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