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【小説】ヴァン・フルールの飴売り 第5話

 黒い蝶は、アンベール達が駆けていくのをじっと見送った。それから羽を広げて、足を伸ばして、舞うように飛んでいく。
 蝶は森の入り口を抜け、枝の間をすり抜け、森の奥に佇む荘厳な屋敷の、三階の開かれた窓に入り込んだ。
「おかえり」
 男性の柔らかい声と、しなやかな左手の指が蝶を迎える。蝶は差し出された指にとまった。
「どうだった? あの子達、もう気づいてる?」
「……こっちに来るわ」
 男性が尋ねると、蝶からは幼い少女の声が聞こえた。
「そっか、ありがとう。じゃあ、また指示するまで少し休憩しててね」
 蝶を乗せた指が、部屋に提げられた鳥籠の中に入れられる。
「ねぇ……いつまで、こんなことするのよ。私、いつまでここにいれば良いの?」
 蝶を鳥籠に入れて立ち去ろうとした男性は、投げかけられた言葉に振り向き、すっと口角を上げた。
「いつまでも、だよ」

 家を飛び出したきり帰って来ないニノンを捜すため、アンベールとウィリアムは、ニナと共に森に入った。猟師のマティアスから貰ったロープを入り口の木と自分の手首に巻き付け、はぐれないよう、ニナの手をしっかり握って。
 三人でニノンの名を呼びながら歩いていると、突如目の前にひらひらと黒いものが飛んできた。
「⁉︎」
「何これ……?」
「黒い蝶だ……!」
 模様のない黒い蝶は、まるで案内するかのように前方へ飛んでいく。蝶からはほんのりと甘い香りがした。三人は蝶の後を追った。
 もう日が沈み、迷路のような薄暗い森を明かりなしで進むのは厳しい。そのうえ、ある程度進んだところで手首に巻き付けていたロープが切れてしまった。蝶を見失いそうになりながらなんとか小走りでついて行くうち、蝶の行く先に大きな門が見えてきた。
(……『この門を潜る者は、一切の希望を捨てよ』……)
 鉄で出来た荘厳な門へ近づくにつれ、アンベールの脳裏には、昔読んだ書物の一文が浮かんできた。そんな銘文が刻まれていそうなほど、その門は暗く冷たい色をしていた。
 蝶は門の格子の間をすり抜けて飛んでいく。後を追おうとしたアンベール達を招き入れるように、門がひとりでに鈍い音を立てて開いた。そして開いた門の向こうには、三階建ての大きな屋敷がそびえ立っていた。
「うわぁ、立派なお屋敷ですね……見たところ綺麗そうですけど、本当に廃墟なんでしょうか……」
 そう尋ねたウィリアムは、黙ったまま屋敷を凝視するアンベールを見て固まった。
「え……アンベールさん? ど、どうしたんですか?」
「ん? あ、あぁ……なんだかこの屋敷、初めて来た気がしないと思ってな。ひどく懐かしいんだ」
「お兄さん、ここに来たことあるの?」隣で手を繋いでいたニナが問う。
「いや、ここに来るのは初めてだ……と思うんだが……」
 アンベールはどこかはっきりしない、もやもやとした気持ちを抱えつつも歩き出した。
 玄関に近づくと、焼き菓子のような甘い香りがより濃くなる。なぜか嗅いだ覚えのある、懐かしい香りに包まれながら、アンベールは屋敷の扉を開けた。

 屋敷に入って、まず目を引いたのが正面の大階段だった。階段の上の壁には、かつてここに住んでいた財閥の総帥と思しき、立派な髭の人物の肖像画が飾られている。しかしその絵には、遠目に見ても分かるほど埃が白く降り積もっていた。
 足を踏み出すたびに埃が舞い、アンベール達は少し咳き込む。三人の他に、人の気配は全く無い。
「……人が住んでいる様子は無さそうだな。掃除すれば生活できるかもしれないが」
「でも、長い間人の出入りが無かったにしては……少し、綺麗すぎる気がしませんか? 蜘蛛の巣ひとつ掛かってませんし……」
「……そうだな。ニノンを見つけたら少し調べてみよう」
 アンベールがそう答えた、その時。
 カチャン、と固いものが落ちたような、甲高い音がした。三人はびくりとして音の方を見る。
「聞いたか?」
「誰か、いるの?」
「……行こう」
 アンベールはニナの手を引いて、一階の暗い廊下へ走り出した。
「え、ちょ……アンベールさん!」
 ウィリアムは必死に二人の後を追ったが、たちまち引き離されてしまった。
「はぁ……はぁ……もう……」
 いつもこうなるんだから。ウィリアムはため息を吐いた。

 いくつもの扉が並ぶ長い廊下。アンベールとニナは、ある扉の前で立ち止まった。扉の奥からは光が漏れ差している。
「良いか、開けるぞ」
「うん」
 アンベールはドアノブを回し、勢いよく扉を開けた。
「!」
 そこはダイニングルームだった。シャンデリアの光が暖かく灯り、テーブルには美味しそうな料理が並ぶ。周りに空の椅子が並ぶ中、テーブルの端の席に、一人の少女が座っていた。
「……だ、誰?」
 少女の声が響く。ニノンではない。栗色の髪を二つ結びにして、ネグリジェのような白いワンピースを来たその少女は、アンベール達を見てフォークを持ったまま目を丸くしている。皿の上には食べかけのチキンとナイフがあった。
「あ……驚かせてしまって、すまない」
「あ、あのね。私達、ニノンって子を探しに来たんだけど……」
「もしニノンのことを知ってたら、今どこにいるか教えてくれないか?」
 ニナと共に優しく語りかけながら、アンベールは心の中で、この少女の顔に見覚えがあると感じていた。
「えっ、ニノンちゃんの知り合いなの? あなた、ニノンちゃんにすごくそっくりだけど……」
「ええ。私達、双子なの」
「そうなんだ……ニノンちゃんはね、今、チェイスさんと一緒にいるよ」
「え?」
「チェイス?」
「うん」
「チェイスって誰だ?」
「私たちのお友達。いつも美味しいお菓子やおもちゃをくれるの。このお料理も全部、チェイスさんが作ってくれたんだよ」
 少女は明るく微笑んで言った。途端に嫌な予感がしたアンベールは、強い口調で少女に語りかけた。
「……とりあえず、ニノンの所に案内してくれるか? この子と会わせたいんだ」
 少女は少し考え込んだ後、しっかりと頷いた。
「分かった。ついて来て!」
「ありがとう」
 少女はテーブルの上の燭台を手に取って歩き出した。後を追おうとするアンベールの服の裾を、ニナが掴んで引き止めた。
「どうした?」
「ねぇ、眼鏡のお兄さんはどこ?」
「! あぁしまった、ウィル……」
 音に気を取られて、相棒を置いて行ってしまった。アンベールは後悔しながら、「……先に相棒を捜させてくれ」と少女に言った。

 アンベール達は階段を上がり、燭台の明かりを頼りに廊下を進んでいった。
「ウィル、どこだー!」
「ウィルさーん!」
 みんなで叫んだ後、立ち止まって耳をすませてみるが、相棒の返事は無い。ここにはいないのか、と再び歩き出そうとしたアンベール達の耳に、木がきしむような音が飛び込んできた。
「! そこにいるのか⁉︎」
 音が聞こえた部屋を探し当て、ドアノブを掴み、思い切り扉を開く。
 床に散乱したぬいぐるみやおもちゃの木琴。小さなテーブルの上の皿に盛られたお菓子。そして部屋の中央に、ロッキングチェアに座っているニノンがいた。

「アンベールさーん!」
 しんと静まり返った屋敷の中に、ウィリアムの声が響き渡る。
「はぁ……どうしよう……」
 暗いし怖いしアンベールさん達とはぐれるし、もう最悪だ。ウィリアムが再びため息を吐いた、その瞬間。
「……ウィリアム」
「! アンベールさん⁉︎ どこですか⁉︎」
「ウィリアム、こっちだ」
 聞き馴染んだ声が、階段の上の方から聞こえてくる。
「アンベールさん!」
 ウィリアムは階段を三階まで駆け上がり、声の聞こえる方へ向かった。
 声は、長い長い廊下の半ば、半開きになった扉の向こうから聞こえる。ウィリアムがほっとして扉を開けると、そこは本棚が壁一面に並ぶ書斎だった。床には手回し式のオルゴールやぬいぐるみが置かれている。アンベールの姿は、どこにも無い。
「……え? あれ?」
 一歩部屋に足を踏み入れ、アンベールの名を呼んでみるが、返事が返ってくることは無い。ここにはいなかったのか。それなら一旦この部屋を出て、別の場所を捜すべきか。そう考え込むウィリアムの、すぐ後ろで。
 かちゃん。
 微かな音に振り向けば、扉が閉まっている。ドアノブを回すが、もう開かない。
「え、なんで……なんで⁉︎」
 ウィリアムは混乱しながらドアノブを何度も何度も回し、扉を押したり引いたりした。しかし、扉は壁のようになって動かなかった。とうとうウィリアムは床にへたり込んだ。
「大変そうだね」
 耳元でくすくすと笑い声がした。驚いて振り向くと、声の主は一人の美しい青年だった。その髪は血のように赤く、長い前髪で左目が隠れている。青年は緑色のジャケットと黒色のズボンを身につけ、キャンディのような縞模様の杖を持って、悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
「だ、誰、ですか……?」
「僕? チェイス・モータルって呼んで。それで、君たちはここに何しに来たの?」
「な、何しにって……それは」
 いなくなった子どもを捜しに、とウィリアムが言いかけると、突然チェイスは怒ったように顔を覗き込んできた。
「まさかとは思うけど、僕の友達を連れて行くわけじゃないよね?」
「え……と、友達?」
「何度かあったんだよね。せっかく皆で楽しく遊んでたのに、大勢の人間が勝手に屋敷に入って来て、友達を探し回って。僕が追い出そうと出て行ったら、『化け物め娘を返せ』だの、『孫を返せ』だの、もううるさくてたまらなかった。君たちもその類なの? 僕たちを引き離そうとするの?」
 まるで自分が人間ではないような話し方だった。チェイスはさらに顔を近づけ、腰を抜かしているウィリアムの鼻先に噛み付くように言った。
「もし友達を連れて行く気なら、許さないよ。絶対に無事で帰さない……あぁ、何なら新しいおもちゃでも増やそうか。あの子たち、きっと喜んでくれるだろうなぁ」
 恍惚とした口調に合わせ弧を描く唇。一瞬、その奥から鋭い牙が見えた。人じゃない。ウィリアムは後ろに仰け反った。
「ほら、これだってもう長い間使ってボロボロだし。そろそろ新しいおもちゃをあげなくちゃ」
 チェイスはおもむろに床のオルゴールを手に取り、ハンドルを回し始めた。オルゴールからは寂しげな音色と共に、う、うぅ、と微かなうめき声が聞こえる。側にあったぬいぐるみも少し動いたような気がした。ウィリアムの顔が青ざめていく。
「そんなに怖がらないでよ、ウィリアム。別に取って食う訳じゃないんだし……僕はただ、君たちの目的を聞いてるだけ。友達を連れて行く気が無いなら何もしないよ」
 ウィリアムはかたかたと震えていたが、勇気を振り絞って、口を開いた。
「ぼ、僕たちは……お前が攫った人たちを、取り返しに来たんだ! に、人間の振りをした化け物め、屋敷に閉じ込めている人を全員解放しろ!」
 チェイスは眉をひそめ、目を閉じてため息を吐いた。
「やっぱり。またそれなの? 正直聞き飽きたんだよなぁ」
 うんざりした様子でそう言うと、彼はゆっくりと目を開いて。
「じゃあ、目的も聞けたことだし」
 杖で床を打った。途端にウィリアムの身体が硬直して動けなくなる。
「え、ちょ……何これ⁉︎」
「そのまま良い子にしててね」
 チェイスは満足そうに目を細め、扉を「すり抜けて」去っていった。

「ニノン‼︎」
 アンベールと白いワンピースの少女は、ニナがロッキングチェアに駆け寄り、ニノンを抱きしめるのを見つめていた。
「ニナ……ごめんなさい、心配かけちゃって」
「ううん、そんなこといいの……無事で良かった……」
 ニナと再会を喜ぶニノンの目が、アンベールを捉える。
「あ……新聞記者のお兄さんも来てくれたのね……ありがとう……」
「無事で本当に良かった……ニノン、怖い思いをしたばかりなのに申し訳ないが、もし良かったら何があったのか教えてくれないか? それと、『チェイス』という人についても」
 チェイスの名前を聞いて、一瞬、ニノンの表情が強ばった。何秒かの沈黙の後、ニノンは頷いて、ゆっくりと話し始めた。

 ニノンはニナと喧嘩した後、家を飛び出して森へ向かった。気持ちが落ち着くまで、ちょっとした散歩をするつもりだった。すると突然、目の前に黒い蝶が飛んできて、ニノンの前方をまっすぐ飛んでいった。
「ついて来いって言っているように見えて、追いかけてみたの。甘い香りがして、なんだか心地良かった」
 ニノンの話を聴きながら、アンベールは、彼女が顔以外、凍りついたように一切身体を動かさないことに違和感を覚えていた。
「しばらく蝶を追いかけてたら、大きな鉄の門が見えたの。開いてたから通っていいのかなと思って、そこを通ってまっすぐ進んだら、このお屋敷に着いちゃって……知らない場所だし、これからどうしたらいいのか分からなくて、しばらく玄関でぼうっとしてた。そしたら……お屋敷の中から緑色の服を着た背の高い男の人が出てきて、中に入れてくれたの」
「その人が、チェイスか?」
「うん。赤い髪がとっても綺麗で、最初はとても優しそうな人だと思った。美味しいご飯を出してくれたし、私がどうしてここに来たのかを説明してる時も、頷きながら聴いてくれた。話が終わった後、急にチェイスさんが変なことを言い出して……」
「変なこと?」
「うん」

「……実はね、ニノン。君がここに来たのは、僕が呼んだからなんだ」
「え? 呼んだって……?」
 不思議そうに尋ねるニノンに、チェイスは少し照れ臭そうに微笑んだ。
「僕ね……今までたくさん友達を作って、ここで一緒に過ごしてるんだけど、よく言うでしょう? 『友達は多い方が楽しい』って。もっとたくさんの友達と遊べたら、もっと楽しくなると思って……君なら友達になってくれそうだったから、蝶にここまで案内してもらったんだ。ねぇニノン、もし良かったら……僕と、友達になってくれる?」
「と、友達? いいよ」
 ニノンはチェイスの頼みを快く受け入れた。するとチェイスはほっとしたように笑って、
「良かった……じゃあ、さっそくみんなに紹介するね」
 と、ニノンの手を引いて二階へ上がり、部屋をひとつずつ訪れ、おもちゃで遊んだりお菓子を食べたりしていた「友達」にニノンを紹介して回った。

「……その『友達』って、何人ぐらいいたんだ?」
「うーん……三十、五十……」
「え、そんなにいたのか?」
「うん。みんな女の子だった。私より小さい子もいた」
「……それって」
「うん……たぶん、その子たちも私と同じように屋敷まで呼び寄せられたんだと思う。掲示板の張り紙で見たことある子もたくさんいた。だから、ああ、この人が『飴売り』なんだって気がついて……」
「じゃあ……チェイスは、悪い奴なんだな?」
「……うん」
「そいつに、何かされたのか?」
 ニノンはうつむいて自分の身体を見た。
「……動けなくされた」

 『友達』への紹介が終わると、チェイスはニノンに前髪で隠れていた片目を見せた。その目は白目の部分が真っ黒で、瞳が赤く光っていた。
「……ど、どうしたの、それ」
「ごめんね、いきなりこんなもの見せちゃって。でも、友達には話しておきたくて……」
 チェイスは申し訳なさそうに言った。
「僕、本当は悪魔なんだ」
「え?」
 思いがけない言葉に顔を上げると、彼の姿がすっかり変化していた。頭から羊のツノが生え、背中には蝙蝠の翼が見える。それはニノンが思い描いていた「悪魔」そのものだった。
「ひっ……!」
「怖がらないで。見た目は怖いかもしれないけど、本当にただ一緒に遊んで欲しいだけだから」
 チェイスは今までと変わらない、優しい口調で語りかけてくる。しかし、今のニノンにとってはその口調でさえ恐ろしかった。

「……信じてもらえないかもしれないけど、本当にあれは『悪魔』だったの。一気に怖くなって逃げようとしたんだけど、彼は『じきに慣れるよ』って腕を掴んで離してくれなかった。それで私が暴れたから動けなくされて……大きな声を出したらどんな怖い目に遭うか分からなかったから、こうやって椅子を動かして音を出していたの」
 言葉を絞り出すたび、ニノンの声は震えていた。
「そうか……話してくれてありがとう。怖かったな」
 アンベールはニノンに優しく声をかけると同時に、心の中で怒りが沸くのを感じていた。
「お兄さん、どうしたの? 顔が怖いよ」
 はっとして声の方を見ると、白いワンピースの少女が不思議そうに見つめている。
「あ、あぁ……すまない。少し考え事をしていて……よし、じゃあ皆、ウィルを捜しに行くぞ。ニノン、立てるか?」
 アンベールに支えられ、ニノンがロッキングチェアから立ちあがろうとした時。どこからか物音が聞こえてきた。
「!」
「どうしよう、チェイスさんかも……みんな、私のことはいいから早く逃げて」
 震える声でそう言ったニノンを、ニナが支えてロッキングチェアから立ち上がらせた。
「大丈夫よ、もうあなたに怖い思いはさせない。アンベールさん、ニノンをお願い」
「え、ニナ? いったい何を……」
「ここは私に任せて。チェイスっていう人が何を考えてるのか調べたいの」
 ニナは妙案を思いついたような得意げな顔で、ロッキングチェアに座った。アンベールはすぐにその意図を察した。
「ニナ……それは危険だ。やめた方が良い」
「お願い、行って。私は大丈夫よ」
「でも……!」
「お願い。ニノンを怖がらせるなんて、どうしても許せないの。それに、これは私たちにしか出来ない作戦よ」
 ニナはロッキングチェアから動こうとしなかった。
「……分かった。でも、助けが必要な時は音を立てて教えてくれ。すぐ駆けつける」
「ありがとう」
 アンベール達はロッキングチェアを何度も振り返りながら、部屋を出た。

                 〈つづく〉

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