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【小説】ヴァン・フルールの飴売り 第7話

「誰? 私に幼馴染なんていないよ」
 イネスはきょとんとした顔で、そう言った。
「……どう、して?」
 リュカは愕然として呟いた。
「私のことは忘れていても仕方ないって、覚悟してたけど……幼馴染を……幼馴染がいること自体を、忘れるなんてこと……ある?」
「それがチェイスのやり口なのよ」イヴリーンが静かに言った。
「彼は、『友達』が怖がってなかなか心を開かずにいると、記憶を書き換えてしまうの……彼に記憶を書き換えられた子は、元の家のことや家族のことを、みんな忘れてしまうのよ」
「……そう、だったのか……いやぁ……飴売りくんも、なかなか酷いことするね……」
 俯いたリュカの声が震えている。そばで全てを見聞きしていたアンベールは拳を握りしめた。
「酷いこと?」
 突然、声がした。一同が振り向くと、チェイスが音もなく立っていた。
「酷いのはどっち?」
「!……お前がチェイスか」
「あれ、覚えてない? そっか……そりゃそうだよね。僕が忘れさせた・・・・・もんね」
 チェイスの言葉に、アンベールは眉をひそめた。何を言っているのか分からない。
「忘れ、させた……?」
「うん。君の名前も、どこで生まれたかも、全部記憶消しちゃった。だってまさか、またここに戻ってくるなんて思ってなかったから……」
 チェイスは忌々しげにアンベールを見ながら、杖を振り上げた。杖が床に触れる。アンベールは全て思い出した。思い出してしまった。
「おかえり……ヴィルジール

 ヴィルジール・ブグローは、ギヨームの孫としてヴァン・フルールで生まれた。
 今から十八年前、ヴィルジールはいとこのイネスと共に森へ遊びに行った。二人は珍しい植物や虫を観察したり、木陰でかくれんぼをしたり、日が暮れるまで遊び回った。
「あ! ねぇイネス、見て。黒い蝶がいるよ」
「ほんとだ! 綺麗だね」
 黒い蝶はしばらく二人の周りを飛び回っていたが、突然、見えない糸に引っ張られるように不自然な動きで森の奥へと飛んでいった。
「!」
「え、ヴィルジール! もう暗くなっちゃうよ! 待って!」
 ヴィルジールの耳に、イネスの言葉はほとんど入っていなかった。ただ、この蝶がどこに行くのか突き止めることだけを気にして、蝶の後を追っていた。

 気がつけば、森の奥深くまで来ていた。蝶は見失ってしまってもういない。イネスも、もうどこにいるのか分からない。
「イネスー?」
 ヴィルジールが叫ぶと、目の前の門が手招くようにぎいいと開く。その奥に見えたのは、三階建ての大きな屋敷。
(なんだここ……初めて来るな。明かりが付いてるってことは、人がいるのか?)
 ヴィルジールは屋敷に近づき、扉をノックした。扉は滑るように開き、中から微かに埃の臭いがした。
「すみませーん……誰かいますか?」
 ぎしぎしと鳴る床の上を、歩きながら呼びかける。
「すみませーん」
 すると、階段の上から「誰?」と聞き慣れた声がした。ヴィルジールは上を見上げた。
「! イネス! 良かった……ここにいたんだ!」
 イネスに駆け寄ろうとしたヴィルジールは、彼女のそばに誰かがいるのに気がついた。
「ぼく、こんな時間にどうしたの?」
 柔らかい声が問いかける。その男性はイネスの肩を優しく抱いていた。
「……あ、こんにちは……え、えっと……」
「チェイス・モータルって呼んで。ぼく、ここに何かご用?」
「そ、その子、僕のいとこなんです……彼女と一緒に帰りたくて……」
「いとこ? イネス、この子知り合い?」
 チェイスがそう尋ねると、イネスはヴィルジールをじっと見つめて。
「ううん、知らない子」
「え⁉︎」
 耳を疑ったヴィルジールに、チェイスは「ぼく、もう遅いから帰りなさい」と微笑んだ。
「え、ちょっと待って……イネス! どうしたんだよ⁉︎」
「な、なんで私の名前知ってるの……?」
 ヴィルジールがいくら呼びかけても、イネスは怯えた様子でチェイスの後ろに隠れるばかりだった。ヴィルジールはチェイスを睨みつけた。
「……イネスに何したんだよ」
「別に何もしてないよ。彼女は僕の『友達』なんだから……ぼく、もう帰ったら? お父さんやお母さんが心配してるでしょう」
「とぼけるな! イネスは僕の大事な親戚だ。お前のものじゃない! いったい彼女に何をした!」
 チェイスは鬱陶しそうに眉間に皺を寄せた。
「はぁ……だから何もしてないって言ってるでしょ。ただ、怖がってたからちょっと記憶をいじっただけだよ」
 瞬間、ヴィルジールはチェイスに飛びつき、馬乗りになって殴り掛かろうとした。しかし拳を振り上げた途端、チェイスに杖で背中の襟をいとも簡単に持ち上げられてしまう。
「なっ……このっ……離せ!」
「元気いっぱいなのは良いけど、あんまり騒がないで欲しいんだよね。『友達』が起きちゃう」
「離せ! 下ろせよっ……!」
「君はまだほんの子どもだから許してあげるけど、もし大人だったら……そうだなぁ、おもちゃの鉄琴とかにしてたかな。あ、それともお菓子の方が良かった? お菓子好きそうだもんね」
 チェイスが笑った瞬間、鋭い牙が見えた。ヴィルジールは息を呑んだ。
「ば、化け物っ……イネスをどうする気だ!」
「だから、彼女は僕の『友達』だって言ったでしょう? 一緒に遊ぶ以外に何かすることある?」
「記憶を消しておいて『友達』……? 一緒に遊ぶ……? ふざけるな! イネスはお前みたいな奴とは絶対遊ばない! これ以上彼女に何かしたら許さないぞ!」
 ヴィルジールがそう言い放つと、チェイスは薄い唇をぐにゃりと歪めた。
「あっそう……じゃあ君にとって、イネスはそんなに大事なんだ。でも本当に彼女のことが大事なら、好奇心のままに蝶を追いかけて置き去りにするなんてことしないと思うけどなぁ」
「! そ、それは……」
 なんとか喉の奥から言葉を搾り出そうとするが、そこから先は何も言えない。チェイスは苛立った表情でヴィルジールを床に下ろした。
「……大事じゃないんなら帰ってよ。僕はね、ここで大事な『友達』と遊ぶのに忙しいんだ。一人で帰れるよね?」
 ヴィルジールはチェイスを睨みつけながら、首を横に振った。
「嫌だ……帰らない」
「は?」
「イネスを元に戻せ。戻したら一緒に帰る」
「何度言ったら分かるの? イネスは僕の……」
「友達なんかじゃない‼︎ 誰がこんな化け物の友達になんてなるかよ‼︎」
 勢いに任せて言うと、チェイスが目を見開いた。
「……へぇ、化け物が友達作っちゃいけないんだ。君はそう思うんだね。酷い子」
 そして、ヴィルジールの襟を杖に掛けたまま、屋敷の外に出ていく。
「え……お、おい! どこ連れてくんだよ、良い加減、離せよ!」
「放すよ。もう二度とここに戻って来られないように、ずっと遠くにね……さようなら、ヴィルジール」
 チェイスがヴィルジールの額に指を乗せた瞬間、ヴィルジールの意識が遠のいていった。

 気がつくと、知らない街中にいた。道行く人々がこちらを見ながら通り過ぎていく。
「あら坊や、どうしたの?」
「迷子か?」
 優しく声を掛けてきたのは、高価そうな服を着た夫婦だった。
「あ……あ、えっと……ここ、どこですか?」
 掠れ気味の声でなんとか尋ねると、「パリよ」と返ってくる。
「あなたはどこから来たの?」
「えっと……」
 言いかけて気づいた。自分はどこから来たんだろう。どこにいたんだろう。何も分からない。何も、答えられない。
「わ、分からない……」
「困ったわねぇ、やっぱり迷子よ」
「お父さんとお母さんは?」
「……分からない……」
「うーん……とりあえず、警察に聞いてみようか。近くに警察署があるからな」
「そうね……坊や、一緒にお巡りさんに聞いてみましょう。こっちよ」
 夫婦は一緒に警察署まで付き添ってくれた。ヴィルジールは警察官に名前や住所を聞かれたが、何も答えることは出来なかった。そして、その日はそのまま警察署に保護されることになった。
 二週間経っても彼の身元は明らかにならず、両親を名乗る人も現れなかった。しかしその後、あの夫婦が再び警察署を訪れ、身元の分からない少年を養子として引き取る決意を示した。
 夫婦は養子として迎え入れた少年を「アンベール・フルニエ」と名付け、大切に育てた。初めは知らない町での暮らしに戸惑っていたアンベールだったが、いつしか夫婦とは本当の家族のように打ち解け、パリを本当の故郷のように愛し、好奇心旺盛な青年へと育っていった。

「あ……ぁああああああ‼︎」
 アンベールは絶叫した。分からない。何が真実で何が嘘だったのか。今、自分がヴィルジールでいれば良いのか、アンベールでいれば良いのか。頭の中で記憶が混ざっていく。ただ、眼前のチェイスを睨むことしか出来なかった。
「っお前のせいで……俺の、人生は……!」
「じゃあ、今更どうしろって言うの? また記憶を消せば良いの? どっちにしろ、もう元通りにはならないでしょう?」
 チェイスは冷たく笑った。
「大きくなったね、ヴィルジール。でも、君は背の高さ以外何も変わってない。大事な人をまた置き去りにしてさ。そのせいで君の相棒が酷い目に遭ったんだよ? ねぇ、ウィリアム」
 チェイスに呼びかけられたウィリアムは、びくっと身体を震わせた。
「……ウィルに何をした」
「さぁね。別に知らなくても良いでしょう? 無事だったんだから」
「答えろ……何をした!」
「あはははっ、必死だね。そんなに大事なら置き去りにしなきゃいいのに」
 アンベールは俯き、唇をきつく噛み締めた。チェイスは愉悦そうに微笑みながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「ねぇ、この子誰だと思う?」
 そう言って彼はいつの間にか持っていた熊のぬいぐるみを掲げる。そのぬいぐるみからは「ごめん……ね……ニノン……」という、か細い声が聞こえた。
「! ニナ‼︎」
 ニノンの叫びを聞いて、アンベールは目を見開いた。
「お前っ……これ以上、大事な人たちを引き離すな‼︎」
「じゃあ誓ってよ、二度とここに来ないって。僕と『友達』のことを邪魔しないって。君の口からちゃんと誓ってくれたら、この子を元に戻してあげる」
「ニナだけじゃダメだ……この屋敷に閉じ込めている人全員を解放しろ」
「そんなことしたら、『友達』も、おもちゃもお菓子も皆無くなっちゃうよ」
 チェイスは少し寂しげに言った。
「……どうして、そんなに『友達』にこだわるんだ?」
「だって、人間と、心から仲良くなった悪魔なんて、今まで一人もいないでしょう……? 本当は僕だって、無理やり閉じ込めたり記憶をいじったりしたくないよ……ただ、皆と友達になって、ずっと一緒に遊びたかっただけなのに……」
 チェイスの言葉を聴いて、ずっと黙っていたイヴリーンが口を開いた。
「……だったら……それだけのために、他の人たちを犠牲にしないでよ‼︎ 全部あんたの自己満足じゃない‼︎ 私はいつまで十歳なの⁉︎ いつまで黒い蝶のままなの⁉︎ いつまであなたの召使いなの⁉︎ おもちゃやお菓子にされた人たちはいつまであのままなの⁉︎ こんな地獄はもうたくさんよ‼︎ ここからは、私の好きにさせてもらうから‼︎」
 そして、イヴリーンはアンベールに耳打ちした。
「チェイス・モータルは偽名なの。あいつを本名で呼んだら、魔法が全て解けるのよ」
「本名?」
「やめて」
 チェイスが声を上げるが、イヴリーンはお構いなしにアンベールに語りかける。
「今から本名を教えるから、その名前を繰り返してちょうだい、いいわね?」
「イヴリーン、やめて……それだけは」
「チェイスの本名は……」
「やめて!」
 アンベールは、イヴリーンが言った名前を口に出した。

「……『ポテー』……?」

 目を見開いたチェイスの姿が、だんだんと変化していく。両目とも白目の部分が黒く濁り、羊のツノと蝙蝠の翼、真っ黒な毛が生えてくる。手足には肉食獣のような鋭い爪が生え、身体が天井に届きそうなほど大きくなる。そして変身を終えたチェイスは、巨大な獣と化していた。
 それと同時に、屋敷全体も姿を変えていく。天井にはいくつもの蜘蛛の巣が掛かり、床の一部は腐り落ち、異変に気づいた少女たちが何事かと集まってくる。
 屋敷にいた少女たちは全て記憶を消され、年齢を止められていた。しかし魔法が解けた今は、記憶を取り戻し、本来の年齢に戻っていた。
「何これ、どういうこと……?」
「私、なんでこんな所にいるの?」
 不思議そうに辺りを見回していた彼女たちは、部屋の中で呆然と佇むチェイスを見て、悲鳴を上げて逃げ出した。
「ま、待って……行かないで……僕を一人にしないで!」
 チェイスが悲痛な声で叫ぶ。しかし『友達』は誰も振り返らなかった。かつて少女だった人々は、廃墟と化した屋敷を出て行ってしまった。
「あ……ぁあ……」
 悲しげな声が響く。アンベール達が黙り込んで見つめる中、チェイスは力無く俯いた。

                 〈つづく〉

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