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宮沢賢治 やまなし 本質の解明 ⑤

5  父親の存在とその価値

 「やまなし」の「五月」の暗さと、クラムボンやお魚、カニの兄弟などの謎について考えてきましたが、私はこの作品で最も重要な人物は、お父さんのカニであると思います。お父さんのカニに着目して「やまなし」全体を捉えれば、比較的容易に主題に迫ることもできるでしょう。そして、この父親像には、宮沢賢治の人柄と理想がにじみ出ているようで、私自身とても好感をもっています。ここでは、そんなお父さんのカニの存在価値について明らかにしてみます。
 設定としては、前の記事にも書きましたが、このカニの家族には母親の存在がありません。そのため、このお父さんのカニが主人公たちにとって唯一頼れる存在となります。
 「五月」でも「十二月」でもお父さんのカニは始めからは出てこないで、ここぞという絶妙なタイミングで出てくるという仕掛けになっています。そして、お父さんが出てくるとカニの兄弟も読者も、彼の口から出る言葉に耳を傾け、救いを求めるのです。この父親の言動から、その人物像を捉えることができます。
 まず、明らかなのが、子どもに対して全うな関わり方ができる父親であるということです。「五月」では、子どもたちが怯えるカワセミの恐さを否定することなく「魚はこわいところへ行った」と真実を伝えつつ、必要以上に恐がらないように一生懸命「樺の花が流れてきた。ごらん、きれいだろう。」などと気をそらそうとしてあげています。「十二月」では、兄と弟の泡の大きさ比べの判定を迫られます。ここでも、まだ幼く明らかに動揺の激しい弟の肩をもつことなく、「それは兄さんの方だろう。」と真実をはっきり伝えます。これらの言動から、子どもだからと言ってごまかしたりせず、あくまで対等に向き合う全うな父親であることが分かります。
 次に、子どもたちに希望を与える重要な役割を担っているということです。「五月」の「クラムボン」「お魚」に関する記事で、カニの兄弟が抱える過酷な現実を確認しましたが、そんな彼らに父親としてできる限りのことをしてやりたいという思いが、その言動から伝わってきます。
 特に「十二月」で、父親の本領が発揮されます。泡の大きさ比べでは弟が泣きそうになっても特になぐさめたりせず、やや冷たいと感じる人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。弟の感情がいよいよ行き場を失いかけたそのときに、絶妙なタイミングでついに「やまなし」が落ちてきます。お父さんはこの出来事をチャンスと捉え、カニの子どもたちに希望を与えるのです。
 子どもらはすぐに「カワセミだ!」といい恐怖に怯えます。「カワセミ」がきたのは半年ほど前の出来事ですが、相当な負のインパクトを彼らに残していたことがここで分かります。しかしそれは「カワセミ」とは真逆で、自ら木から落ちてきて生き物に恵みを与える存在でした。
 お父さんのカニはこの出来事を待っていたかのように、二匹を連れて、ついていってみることにしたのです。その父親の思いが伝わったのか、見えない力が働いたのか、そのやまなしはカニたちの上で引っかかって止まってくれました。そして、やまなしのその後について子どもらに語り、カニの子どもらに何とも言えない安心感とわくわくを与えて、この幻灯はおしまいになります。
 私は、この父親の希望の与え方に、宮沢賢治の人柄が出ていると感じました。子どもに希望を与えるためにおとなたちは、ただ安心させるためのごまかし、一時的な楽しみを与えるイベントなど、いろいろな手を尽くしますが、宮沢賢治はちがって、生きている中ですでにある身の周りのものから希望を見つけることを教えたのでした。
 何もしなくても得られる恵みが、この世界にはあること。それをお父さんのカニを通して伝えようとしたのではないでしょうか。

 
 

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