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末吉製茶の歴史探訪

こんばんは。
2日ぶりですね。


…と書けば、まるで頻繁に記事を更新している風を装えますが、
実際のところは、12日ぶりだそうです。

詰まらない見栄を張ってしまいました。


さて、本日は、末吉製茶の歴史を紐解いていこうと思います。
歴史探訪です。

会社のホームページにもいつか整理して掲載したいと思っているお話で、今回はその初稿です。


何やら真面目な雰囲気です。

よろしければお付き合いください。




平成29年_末吉製茶工房の誕生

平成29年10月17日、「合同会社 末吉製茶工房」が設立されました。


代表兼店主である又木健文(つまり僕です)が、

「お茶の楽しさ・美味しさを、沢山の人の許へ届けたい」

という想いから、祖父の代からこれまで個人事業として営んできた製茶業とは別に、会社を起ち上げたことが始まりです。


経営理念は、

「お茶で繋がる。」
「余韻のある暮らしの創造」
「届くべきところに届くまで」

です。


取り敢えずの僕の目標は、

300年続く会社の礎を創る

ことです。


ちなみに、決算日は8月31日で、ただいま決算業務真っ只中です。

思えば、来月の17日で丸4年が経過するのですから、本当にあっという間に時間が経過しました。

まだまだやりたいことを全然できておらず、当初思っていたよりももっとずっと先にゴールはあるようです。

末吉製茶工房を起ち上げて約4年。


4年!?


丁寧に振り返ってみると、改めて、本当に濃ゆい時間で、起こった出来事を書き上げようとすればなかなか大変なことになることに気づいてしまいました。

ということで、末吉製茶工房の設立からこれまでの話は次の機会に託すことにしまして、ここからは、末吉製茶工房の設立よりも前のお話、詰まり「歴史」を遡っていこうと思います。



昭和47年_父、故郷に帰る

末吉製茶工房の設立より前に起きた大きな出来事と言うと、ここになるでしょうか。

(他にもありそうですが…)


代表兼店主の健文、つまり僕(この呼称もまどろっこしいですね)の父である康文は、昭和47年に静岡県の茶業試験場を卒業し、故郷である曽於郡末吉町に帰ってきました。

そして、僕から見た祖父、仲平から茶工場と茶畑を受け継ぎます。


祖父は初めから父に茶業を継がせるつもりだったらしく、また、父も茶業を継ぐことに何の疑問も抱かなかったようです。

しっかりと茶業を営んでいくことになった結果、お茶作りをきちんと学ばなければ、ということで、父は地元の高校を卒業した後、静岡県の茶業試験場へ進学し、無事に卒業しました。


ふと思ったのですが、末吉製茶に携わる登場人物の中で、茶業試験場や農業大学、農業高校で学ぶ、といった王道を通ったのは、後にも先にも父だけです。



昭和46年_現在の茶工場が完成

この記事を書いている令和3年(2021年)からちょうど50年前、現在も現役で活躍している茶工場が完成しました。


当時では珍しい鉄骨造りで、同じ製造能力を持つ他の茶工場に比べ、随分と余裕を持った広さの建築物でした。


茶工場の広さに関しては、今でも他の茶工場に比べて余裕のある広さです。
さすがに、すべてが当時のままというわけにはいかず、いくつかの箇所は修繕をしておりますが、ぱっと見では50年経っているとは思えないくらい丈夫な建物だと思います。


ちなみに、現在のこの茶工場は、父が茶工場を継ぐことを見越して、祖父が一大投資で建設に踏み切ったという経緯があるそうです。

祖父の先見の明や行動力は、本当にすごいと感じます。



昭和35年_現在の一つ前の茶工場が作られる

先述しました現在の茶工場は、実は三代目です。

建物ですので、三棟目、でしょうか。


今より一つ前の茶工場は、現在の末吉小学校の近くに建てられていたそうです。

ですが、やはり小学校の近くということで小さい子の行き来が多く、工場という少なからず危険がある場所であること、近隣に住民が増えてきたことから、現在の場所に引っ越しすることにしたそうです。


二代目の茶工場は、約11年間、稼働してくれました。



昭和31年_祖父が茶工場と茶畑を買取り、お茶作りに本格参入

うちのお茶作りの始まりは、他のお茶農家さんとは大きく異なります。
畑地にお茶の苗木を植える、ところからは始まっていないのです。

どういうことかというと、当時、末吉町で協同でお茶作りをしていた方が経営に行き詰まり、もうお茶作りを辞めるという話が、祖父の耳に届きます。

祖父はその当時、呉服店を営んでいたのですが、「これからの時代、お茶産業が伸びる」と、その将来性を見込んで、茶工場と茶畑を丸ごと買い取り、お茶作りに本格的に参入しました。

今風(?)に言えば、M&A です。


祖父は、呉服店を営みながら、買い取った茶工場の経営の立て直し、地元産業として茶業を盛り上げることに心血を注いでいたようです。


この時、茶工場と一緒に買い取った茶畑は、今でも手放さずにずっと受け継がれており、この茶畑に植えられているお茶の木の樹齢は、少なくとも70年を超えています。




「記録」に残っていること、「記憶」に残っていること

そもそも「歴史」、「歴史学」とは、古文書など文字で記された史料を読み解いて過去を明らかにしていくことだそうで、文字ではなくモノから過去を明らかにしていくことは「考古学」になるそうです。


突然、何を言い出すのかと思われたでしょう。


実は、末吉製茶にも、文字として「記録」に残ってはいませんが、「記憶」に残っているお話があり、もう少しだけ過去に遡ることができるのです。

あと少し、お付き合いください。



曾祖父がお茶作りの始まり?

そうなんです。

記録には残っていませんが、当時を知る人の証言によると、又木家が代々営むお茶作りは、どうやら、僕から見た曾祖父から始まっているようなのです。


曾祖父が営んでいたお茶作りは、規模としては非常に小規模で、どちらかと言うと呉服や日用品の商売が主な生業のようでした。

そのためか、もしくは戦前の話ということもあり、記録は残っておらず、当時を知る人からの証言から推測するしかないお話なのですが、仮に曾祖父からお茶作りが始まっていたとすれば、僕は4代目になり、創業からも100年近い年数が経っていることになります。

一気に重みが変わってきます。

否、重みは変わらないですかね。
いずれにせよ、残していきたいという気持ちの大きさは変わりません。



「記憶」を「記録」として残す

そういった「記憶」の話だけでは、後々になり、当時を知る語り手がいなくなってしまった時、築き上げたものがいとも簡単に途絶えて消えてしまいます。

僕にとって、曾祖父がお茶作りをしていた、という話がまさにそう。


ですので、「記憶」を「記録」にすることがとても重要だと感じています。


なにせ、僕の取り敢えずの目標は「300年続く会社の礎を創る」ことです。


300年、生き続けて証人になってくれる人も、受け継いで証言してくれる人もそうそういないでしょう。

であるならば、自分たちできちんと記録を残していくことがやはり大事です。


今回は、過去へと遡る中で、記録に残っている話を整理してみました。

これからも、「過去」に関する話を調べては記録に残していこうと思いますし、自分たちのこれからの「未来」についても、しっかりと、記録に残していこうと思います。


300年後、いえ、もうすぐ丸4年が経つので、約296年後ですね、末吉製茶工房の300年記念式典が開催され、「末吉製茶工房の歩み」とかなんとか、それらしい、そんな分厚い本(その頃には紙の本はもう存在していないですかね?)が配られることでしょう。


そのとき、今日のこの note の記事が、<序章>として掲載されているかもしれません。

…なんて。


それでは、また次の記事でお会いしましょう。


又木健文

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