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【連載小説】移民が主権を握った近未来:イエローリバーエロージョン27話 完結

(27)青い海

 夕日が傾き、所々ペンキのはげ落ちたバルコニーの手すりの一片を強い光で照らしていた。春の香りが鼻先を擽った。まだ大和の治安がそこまで悪化していなかった新婚の頃、ジープに乗って妻と菜の花畑を見に行った。花粉が入り交じる生暖かい風が車窓から吹き抜けて小夜の髪先を揺らした。藤本は鼻歌を歌う妻の浮かれた様子を何とはなしに眺めていた。黄色い河の破片がどこからともなく飛んできて、ひび割れだらけのアスファルトの国道を濡らしていた。時折タイヤがクリーピングを起こすので運転手はその粘り気の強い水たまりには進んで入ろうとはしなかった。

 黄色い水を避けるようにハンドルを切ると、小夜は大げさに体を傾けておもしろそうに笑った。菜の花畑はもうすぐだった。だが、突如現れた治安維持局の兵士に車の停止を求められると、藤本は途端に険しい表情に変わった。土地はハルモニアに収用されることに決まっていた。毎年当たり前のように行っていた菜の花畑は突然、気軽に立ち入ることのできる場所ではなくなった。小夜は何も言わずに兵士の喋る英語に細かく頷いた。ハザードランプの点滅する音だけが車内に響いた。

 バルコニーに人影があった。夕闇がもうそろそろ忍び寄る頃だった。田積と呼ばれた美しく細かな粒子の砂の色をした瞳の少年が、バルコニーの側に立ち尽くし、海を見つめていた。藤本は自分の体が倒れていることに気づくと同時に、あの巨大な高波に巻き込まれたのに確かに命があることに驚いた。部屋の奥に横たわる2人の移民の少女も気を失っているようだった。 

 そして部屋の中から姉の名を呼んだ少年は、傷一つなく、長い四肢をしっかりと根付かせる若木のように立ち、その美しい横顔を見せていることにも神の意志を感じた。低い、これまでに聞いたことのない穏やかで静かな、波がぶつかり合う音が聞こえた。潮の匂いがした。慈しみ深く、生物を育むために生成された潮の香りだった。

「おい、少年」

 田積は少しだけ視線をこちらに寄越したように見えたが、すぐにバルコニーの先に広がる大海へと目を向けた。

「俺はな、正直、海の色なんてどうでもいいと思ってた」  

 藤本のくぐもった低い声が耳に届いているのか分からなかった。田積は何の返答もせず、梨色の唇を緩やかに結んでいるだけだった。

「だがな、不思議なもんだ。こうやって、ここに転がって世界が90度回転して見えるとな、海の色が気になって仕方がない。気にしていないと思っていたものでも、見てみたいという気になるんだな。人間は欲深く、愚かなものだ」

 胸の中の痩せこけた女は子供のようにあどけない顔で深い眠りに落ちていた。不思議なことに、響子の頭部には腰までに伸びきった長い髪がうねり、藤本の手に絡みついていた。その一房一房を剥がし終えると、仰向けになって手足を存分に広げた。濃い群青色に変化しようとしている空の彼方に、一つだけ明るい赤い星が現れた。

「お前さんはその景色を目の当たりにして、今、何を思う」

 田積は目を閉じた。潮風が睫を揺らし、麻のシャツの襟元から空気が入り込み、船の先に立てられた旗のようにはためいた。

 両手を広げた。強い風が全身に行き渡るようだった。さらさらとした青い風が吹き抜けて白い泡が空の向こう側に飛んでいった。

「俺らはこれからまた生きて行かなきゃいけない。長い人生をな。誰かの代わりに死ぬとか、誰かの代わりに生き残ったとか、そんな生半可なことじゃない。これから、自分のために生きる意味を探さなきゃいけない。辛い、長い旅の始まりだ」

「自分のためだけじゃない」

 田積は初めて口を開いた。藤本は最後に姉の名を呼んだ少年の声と同じ、少し高い、海に響く凛とした声に耳を澄ました。

「自分のためだけに生きていくだけなら、短い人生だ。誰のために生きていけるのか、それを探すのが僕たちの使命だ」  

藤本はしばらく押し黙ったまま、波間の静寂から流れ出す新たな生命の音を聞いた。雲は風に流れて西空から東空へと押し出されていく。光の筋がこの地まで降り注いでいた。

「そうかもな」

 頭上を鳶が旋回した。本の中でしか見たことのなかった幻の鳥に藤本は目を離せなかった。番の2匹は、くるくると円を描き、青黒いベールに覆われていく大海へと吸い込まれるように飛んでいた。

「海の色を知りたいの」

 田積は独り言のように呟いた。

「そうだ。ずっと、ずっと誰もが見たかったはずだ。この国に生きてきた者なら」

 手を伸ばした。カナリーイエローの列車の向こう側に乗っていたはずの浅海は、いつの間にか10歳程年を取り、26歳の女王の姿で田積を見つめていた。

 黒後駅で、浅海は確かに自分と肩を並べて列車に乗り込んだ。だが、今はどこを探したとしても、黒い塵となり、水流と共に海へ還っていった浅海の姿は見つからない。

「青い。見たことのない美しい青だ」

 田積は振り返った。色のほとんどない瞳が藤本の顔を真っ直ぐに見つめた。肖像画の中に生きる王族のようだった。藤本は頷き、目を閉じた。

「そうか」

 鳶が遠い空へと翼をはためかせて塒へと帰っていく。日が完全に落ちて深い青色の闇を迎えようとしていた。田積の少年らしい華奢なシルエットへ藤本は笑みを浮かべた。

「その色を、その美しさを一生忘れるな」

 田積は空を見上げた。夜が訪れようとしていた。鳶の翼の先が視界から消えていく。空は高い。決して届かない程に遠く、海と同じ色をしていた。鈴の音が鳴り響いた。

          *

 田内はゆっくりと周囲を見渡した。青い閃光が広場を包み悲鳴が聞こえようとも、田内は決して目を瞑ろうとしなかった。空まで電流が届くように、青い光と暗闇とが交互に点滅しては体中にその鈍い痛みが駆け抜けていった。だが、いつまでたっても視界は消えなかった。黄色い河が氾濫を起こし、ついにこの政治の中枢の町まで到達することも、核兵器の威力によって町が吹き飛ばされることもなかった。

 永遠に続くかと思われた殲滅による光の点滅は、いつの間にか収まっていた。頭上に鳶が現れた。1匹ではない。とうの昔に絶滅されたと言われる大きな翼を持つ鳥が、何匹も滑走していた。田内は両手を差し伸ばした。段々と冷静さを取り戻していった群衆の中の一人が、呟いた。

「青い」

 田内は、街の合間に見える遠くの黄色い河があった場所を、その青年の指の先に導かれるように見た。

「海が…、海がある」

 その青年の上ずった声は瞬く間に伝線し、囁き声はあっという間に歓喜の言葉や悲鳴へと置き換わっていった。街に押し寄せようとしていた波は穏やかな姿に変わり、目を見張る程に青く、光り輝く白い波を見せていた。人々は次々に広場から走り出し、なるべく背の高いビルディングに飛び込んで階段を駆け上がった。

 田内は取り残され、生暖かい春の風を感じながら、ただ立ち尽くした。手の平を翳してみた。夕日に染まった爪の先に真っ青な小宇宙を乗せた。軍人だった父を思い出した。骨の浮き出た子供くらいに小さくなった父の手を握り、最期の言葉を聞いた。軍人であることへの誇り、息子にその思いを継いでほしいこと、家族への感謝だった。最後に父は移民への怒りと憎しみの言葉を紡いだ。その言葉の一つ一つが持つ濁った色彩を、14歳の田内には到底、受け取められるはずはなかった。

 威光を失い、混乱を極めた軍部に多くの若者が失望した。同期が相次いで去っていった。移民は街を占拠し、大和人が何百年にも渡って組み立てたものを破壊した。黄色い河は大和人の体を蝕み、そうして長く生きることを許さなかった。

 悲鳴がわき起こった。廃墟となったビルの窓からたくさんの顔が覗き、皆同じように街の先を眺めていた。悲鳴は折り重なり、色とりどりの糸がくるくると回りながらボビンにまとわりついて一つの太い糸へと変貌していった。すすり泣く声が聞こえた。驚嘆と喜びの声は鳴り響き、渦となって広場を占拠した。田内は、色の入り交じった人々の横顔が全く同じように瞳を輝かせて神の仕業と思しき海の出現を、まるで子供のように喜び、泣く様子を見ていた。

 地中に埋められた核兵器は稼働しなかった。もし、その爆弾がこの街を破壊していたとしたら、彼らは一体、どんな顔をして死んでいったのだろうか。そして、果たして自分自身は2つに分かれた道のどちらを望んでいたのだろうか。

 そこまで考えた後、田内は目を見開いた。鬼沢がこの国の地中に埋めたものは、果たして人々を一瞬で吹き飛ばす恐ろしい爆弾だったのだろうか。あの富士山麓の施設のように、全てはりぼてであったのではないだろうか。

 田内はがっくりと膝を折り、地面に両手をついた。鬼沢の意志は、既に決まっていたのだ。死ぬことを悟りながらも、破壊を望む科学者のふりをした鬼沢は、全ての者を欺き、最後までその意志を見事に隠し通した。

 顔をゆっくりと上げると、先程の移民の少年の頬は濡れていた。肩車をして大はしゃぎする父子の傍ら、ただ静かに褐色の肌に涙を落としていた。

「父上、申し訳ありません」 

 田内は目を瞑った。全身の力が抜けていった。地面に大の字に寝転がると、四肢を放り出した。アスファルトの温かい熱が背中に伝わるのが心地よかった。鳶の群が旋回しながら広場の馬鹿騒ぎをどこか嬉しそうに眺めていた。


 鳶の群れがこの海岸沿いの寂れた町の空を飛び交うのをいつまでも眺めていた。生まれて初めて眼前で見た黄色い河は高い壁になり、さくらたちを飲み込もうとしたはずだった。だが突然現れた青白い閃光と共に、高波は跡形もなく消え、数分後に目を開いた時には、黄色い河は、真っ青な見たことのない、海というものになっていた。 

 潮騒が耳に心地よく渦巻いた。こんなにも穏やかで心を落ち着かせてくれる音を聞いたことがなかった。さくらは胸一杯にすべての空気を吸い込もうとした。

 黄色い河の触手が岸壁からせり上がり、さくらの体を取り囲もうとした時、確かに田積の声が聞こえた。田積はこの狂気に満ちた自然の産物と対峙してきた。波に包まれる瞬間、焦りも死ぬことへの恐怖も感じることはなかった。

遠い黒後の地からやってきた不思議な色の瞳を持つ少年は、誰よりも人間らしく感情の一つ一つを瞳の色に映し出した。その中に映り込む自分は美しかった。

 さくらは前を見据えた。胸の奥が柔らかな痛みに包まれ、海の波に揉まれ消えていくようだった。

                                  *

 交差点の信号機が点滅した。足を速めると、同じように何人か横断歩道に取り残されていた人々が慌てて渡っていった。

 週末には仕事帰りの老若男女が入り交じり、この先の飲み屋街へと陽気な笑い声と共に繰り出していく。十字交差点の高層ビルに設置されたパネルには、デビューしたてのあどけない移民の美少女が、新発売の清涼飲料水を喉を鳴らして飲んでいた。        

 新宿の街は一日も休むことなく開発が進んでいた。あちこちで夜の喧噪にまみれて工事の音が鳴り響き、廃墟となっていたビル群は取り壊されて新しい商業施設に生まれ変わろうとしていた。

 ペドロが手を上げると、人混みの中でも一際目立つ美しい青年が同じように右手をあげた。何人かの女たちがコート姿のその青年とすれ違った後、振り返って小さく矯声を上げるのが見えた。

「随分背が伸びたなあ。見上げるくらいだ」

ペドロが近寄ると、田積は目を細めて笑顔を見せた。薄茶色の砂のような瞳の色は変わりなかったが、青白かった肌は血色が良くなり、手足にも大分筋肉がついた。青年は確実に大人に近づいていた。

「元気そうだね」

「そりゃあ元気じゃないとやっていけないさ。来月にはいよいよ総選挙だ。ハルモニアがまた議席を減らすことになるだろうけど」

「僕も投票するよ。どこに入れるかは内緒だけど」

「もちろん君の意志に任せるさ」

 ペドロは田積と連れ立って歩き始めた。大都会にいようとも、毎年この季節は懐かしい春の香りがした。3年前に青い海が出現して以来、この潮の香りは必ず風に乗って東京の街まではるばるやってくる。

「大学はどうだい」

田積は短い前髪を夜風に揺らし、空を見ながらペドロの隣を歩いていた。イルミネーションに照らし出された横顔が、あの時、首相執務室で銃を構えていた少年の横顔と重なった。

「楽しいよ。今度政治学のシンポジウムに出席することになったんだ。今はその準備に大わらわさ」

「すごいな。さすが主席入学だ」

ペドロが褒めても、田積はいつものように肩を竦めて微笑むだけだった。ペドロは笑い声を上げながら通り過ぎていく若者たちを見遣った。

青い海を取り戻した大和の回復は目を見張るものだった。核兵器の悲劇に再び瀕していたという事実を反省し、国会では大和人の議席を一定数以上に維持する新しい法律が成立した。

ジョシュ・ラモス首相は司法裁判にかけられ、最高執行機関の首脳の地位を追われ、今は故郷の津名島の復興に携わっているという。代理として長らく政務を執りしきっていたカルロスが首相として正式に選ばれた。大和軍は解体され、軍隊に属していたすべての若者が解任された。生き延びたと真しやかに囁かれている柏原元帥の娘も姿を消し、行方が分からない。

 この国は変わった。ペドロは通りすがっていく民の瞳に温かな希望の光が灯っていることを確認すると何とも言えない気持ちになった。

 一番に見直されたのは教育制度だ。カルロスはペドロたちの手を借りて、すべての子供たちが大学まで無償で教育を受けられる仕組みを構築することに成功した。これまで実現不可能と言われてきたこの制度は、没落していた大和の姿をがらりと変えた。

 そして富士の地中に充満していたガスが新エネルギーとなり得ることが判明し、事故続きだった原子力発電所の全てが稼働を止めた。

 治安維持局は組織再編されて、規律が見直された。街は活気を取り戻し、肌の色に関係なく昼夜問わずに外出できるようになった。ペドロはその中でも復興の足が随分と早いこの街の変貌に毎回驚かされた。

 だが、国の財政が健全化するのはまだ何年も先のことだろう。ラモスも目指していた農業の再興はまだ遠い。富士山麓で実験的に集積農場が次々に生まれているが、食糧自給率はまだ低いままだ。

世界的な食糧不足は免れたが、隣国との関係改善にも問題が山積みの状態だ。黄色い河の消滅でこれまで通りに寿命が伸びれば、国民の扶助費も増加の一途を辿る。1人1人の所得額は上向きにはなってきているが、まだ貧富の差は大きい。それでも、青い海の出現は世界を変えた。

「田積、君はこの3年の変化をどう思う」

突然のペドロの質問に、田積は視線を宙に向けた。街のあちこちを彩るネオンが田積の白い肌に散らばっていくビーズのように色を映した。

「夢のようだ。3年前、僕が願っていた世界が目の前で実現されようとしている。今でも信じられない」

「そうだ。我々はまだ夢の中なのかもしれない。青く美しい海に囲まれた島国は立ち直ろうとしている。誰でもない、我々自身の意志で」

田積は何も言わずに微笑んだ。ペドロはその様子を複雑な心境で見守った。出会った時、失意の中にいた少年は同じ年代の者が決して見ることのなかった光景を見た。それは田積の今後の人生を豊かにするものでもあり、一方で決して消えない傷を作った。年を重ねるごとに、田積の心に重りは増えていっているようだった。

「田積。大学を卒業したら、私の元で働かないか」

 ペドロが足を止めると、田積も数歩先まで歩いたところでゆっくりと振り返った。

「まだ先の話ではあるけれど、君には政治の現場というものを間近で見て勉強してもらいたいんだ。そして、ゆくゆくはこの国の未来について私と一緒に考えてほしい。まだ問題は山積みだからな」

「ありがとう」

赤提灯のぶら下がる飲み屋街の店の前で、スーツ姿の移民の男がくだを巻いて座り込んでいた。同僚らしき男女が笑いながら腕を引っ張って立たせようとしている。

「でも、僕なんかでいいの」

「どういうことだ?君は勉強熱心だし、とても優秀だ。何よりこの国の重要な局面で誰にも真似できない重要な役割を果たした。今でも君の言葉は語り継がれているぐらいなんだから」

「僕はいつまでこの世界にいられるか分からない」

歩道の脇には誰かが植えたパンジーが花壇でひっそりと花開いていた。小さな白い看板には、青い大和文字と英語で品種が記されていた。

「どういうことだ」

「僕は自分が何歳かも知らない。生きているのか、死んでいるのかも分からない。人間なのかも。黒い血の流れる者は、遠からず数年で死ぬという話もある」

ペドロは目を細めた。田積は赤提灯をぼんやりと見つめていた。

「それに、まだ分からないんだ」

「なにを」

風が田積の前髪を揺らした。高い鼻梁が頬にうっすらと影を落とした。

「浅海に、ありがとうさえ言えなかった。罵り、生まれたことさえ否定する言葉を投げかけた。どうすれば、浅海は許してくれるのか、ずっと考えてきた。でも、分からない」

田積は砂の粒子が散らばったような目をこちらに向けて顔を強ばらせた。しばらくの間、2人は何も言葉にせず見つめ合った。

「自分が何のために生まれて、誰のために生きていけるのか。答えは見つかったか」

田積はペドロの青い瞳から視線を外すと、ゆっくりと首を振った。人の良さそうな外相は白い歯を見せて眉毛を下げた。

「いつ死ぬかなんて分からない。黒い血であろうとなかろうと」

喧噪が取り巻いた。流暢な大和語が飛び交っていた。

「俺だって明日死ぬかもしれないんだ。後悔しないように、生きろ。必死に生きるんだ。許されるなんて考えちゃだめだ。今日だけじゃない、今日が終わったら明日だ。明日が終わればまたその先の一日を見ろ。一日一日そうやって生きる姿を見てもらうしかない。さっきの答えが見つかってないなら、なおさらだ」

ペドロは田積に駆け寄ると、肩を組んだ。背の伸びた田積が屈むようにしてようやくペドロの腕が届いた。

「お前さんはきっとこの国になくてはならない存在になる。それはお姉さんも分かっているはずだ」

田積はため息をつくと、微笑んだ。

「なんだか、ペドロの言葉は不思議な力がある気がするよ」

「そうだろう、信じてついてこい」

ペドロが肩を組んだまま暖簾をくぐった時だった。視界の端に青い炎を見た気がした。大筆のような白い毛で覆われた尻尾の狐が横切った。ペドロは気づいていないようだった。はっとして、狐が走っていった方向を見ると、夜の街にその姿は忽然と消えていた。

「どうした」

田積はしばらく狐が走り去っていった雑踏を眺めていた。ペドロは不思議そうに、しきりにクラクションが響く大都会の町並みを見渡した。

「なんだなんだ、狐に包まれたような顔しちゃって」

「なんだか、すごく…」

ジャスミンの花の香りが漂った。

「懐かしいんだ」

そう呟いたきり、田積は視線を一点に定めたまま、動かなくなってしまった。ペドロは辺りをきょろきょろと見回した。綺麗に舗装されたアスファルトをヒールを履いた女性が颯爽と歩いていった。先程の酔いつぶれたサラリーマンはようやく仲間の助けで立ち上がり、千鳥足で再び雑踏へと消えていった。高層ビルの向かい側のバス停には、小さな赤ん坊を抱いたスーツ姿の母親と父親が愛らしい自分たちの子供を見守っている。

 田積は、雑踏から抜け出してきた目の前にいる人物から目を離すことができなかった。ペドロは目を丸くした。そしてゆっくりと時間をかけてその偶然なのか奇跡なのか判断できない光景の意味を悟り、暖簾の向こうへと消えていった。

 ペドロは肩を鳴らすと、店主にビールを3人分注文した。温かい空気が全身を優しく包んだ。鼻を擦った。若者たちがビールジョッキを傾ける音に目を閉じた。

                

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