見出し画像

【青年海外協力隊ベトナム日記 2006〜08】 第29話 ベトナム美術教育の未来①

ベトナムの美術教育の現状

長い戦争の時代を経て社会主義国となり現在に至るこの国は、周辺諸国に比べて入ってくる情報が圧倒的に少ない。
特に国外の情報をこの町で知る機会はほとんど無い。

これは単に情報インフラが整っていないという理由もあるが、そもそもの情報を政府が政治的に制限しているという話も聞く。
ハノイやサイゴンなどといった一部都会の経済特区と呼べるような地域は除き、その他の地方はやはり圧倒的に外からの情報が少ない。

外国人がベトナム国内を比較的自由に旅行できるようになったのもまだ最近のことだし、いまだに外国人の入域を制限している地域もある。
1990年代半ばまでは、ベトナム人でも都市戸籍と農村戸籍がはっきりと区分されており、国内の移動と居住が制限されていたそうだ。
その当時外国人はベトナム国内を旅行する際には「旅行許可証」が必要であった。
私の任地ではいまだに町の外に出るときには毎回公安に届けを提出しなければならず、すでに廃止されているはずの「旅行許可証」を携帯するように言われる時もあった。
また、実態は定かではないが居住外国人には公安の監視が付いているとの話もよく耳にする。

そのような閉鎖的な環境の中ではやはり美術教育も閉鎖的なものになってしまうのは仕方が無いことなのかもしれない。

技術を訓練することと、表現・創意工夫を育むことを同時進行で進めるのはもちろん容易でない。
しかし、学校教育の中ではやはりどちらも大事なことだ。
先進国の学校教育における美術教育の中では後者を重視する傾向だが、ここベトナムでは依然「教科書どおりの正しい描き方」の教育が主流だ。
その教科書にしても、教科書というよりも模型の説明書のようにひたすら「正しい描き方」を述べているにすぎない。

私の勤務する師範大学では、教育局からの指導書通りにカリキュラムが組まれ、学生たちは「ベトナム流の正しい美術教育」を学ぶ。

もちろん、どこの国でも自国の文化に根差した教育法があるのは当然だし、またそうあるべきだと思う。
しかし美術に関して言えば、このまま現在の「ベトナム流美術教育(すなわち技術教育)」を続けていても、そこから生み出されるものに果たして価値が見出せるのかどうか疑問だ。

また、その「技術」に関しても日本の美術大学を卒業した私の目から見れば、先生方の技術レベルですら多少絵画の描き方を学んだ程度の日本の高校生レベルにすぎない。
指導者が必ずしも高度な技術を有している必要は無いのかもしれないが、肝心なものが抜け落ちた状態で中途半端な技術力しかない指導者が、新しく指導者になろうとする人間を教育することなどできるのだろうか。

美術の「知識」についても、残念ながら先生方はまだかなり狭い範囲しか持ち合わせていない。
現代の美術はあらゆる分野に多様化しているにもかかわらず、新しい価値に目を向けず、現在確立されている価値しか重んじないため、彼らの知る美術はやはり100年前の美術の価値観で止まってしまっている。

そもそも先生方にしてみても、新しい情報を知りたくても大学はもちろん町の図書館にすら美術関係の本はほとんど無く、この田舎町にはそんな情報はまず入ってこない。

選択肢があること

さまざまな情報を知り、その中から自分に必要な情報を選択し、自らの進む道を自分で切り拓いていける環境があることが大切だ。

もちろん金銭的な理由や、その他さまざまな理由で自らが望む道を断念せざるをえない状況もあるだろうし、実際はそのような状況がほとんどだろう。

ただ、少なくとも未来に可能性が見出せること。
そこに1%でも夢があることが重要だと思う。

美術を用いて何がしたいのか、美術を用いてどのように社会と関わっていくのか、美術を自分の中でどのように位置付けて生きていくのか、それを考える力を養う教育をしていかなければならない。

もちろんこれは美術に限ったことでなく、あらゆる教育に対して言えることであり、またそれが無かったら教育は教育としての存在理由が無くなってしまう。

ここベトナムでは、小学校・中学校においてかろうじて美術教育が行われているが、まだ高校では行われていない。
職業訓練校の学生に対してならいざ知らず、初等教育課程の小中学生に対し、自ら考える力を養う教育をせずに、教科書通りに「正しい絵画の描き方」を画一的に教えてその先に何が見えるのだろう。
たとえ技術的に「うまい絵」が描けるようになったところで、それを何にどのように活かすのだろう。
果たしてそこに可能性はあるのだろうか。
子供たちは未来を夢見ることができるのだろうか。

中国の書店で

昨年、任国外旅行で中国へ行った。
そのとき、活動に役立てようと思い書店で美術関連の本を探した。

ベトナムと同様に社会主義体制を採る国なのであまり期待はしていなかったのだが、そこにはベトナムとは比較にならない量の美術関連書が並んでいた。

私の立ち寄った書店は地方の省の省都にある国営の書店だったにも関わらずそのような状況だったので、大都市ではさらに豊富に情報が手に入るだろうことは容易に想像が付く。

また、小中学校の教科書も見てみたが自国の伝統的な美術はもちろんのことながら、同様に諸外国の美術の紹介もしており、時代も古いものから新しいものまでわりと幅広く扱っていて、教科書ひとつを取ってみただけでも美術教育に対する姿勢はベトナムとは雲泥の差だった。

学生たちの参考になりそうな本と共にその教科書も数冊購入し任地に戻ってから授業の中で紹介したのは言うまでもない。

ベトナム美術教育の未来

厳しい情報規制を敷いているはずの中国ですらそのような状況なのだから、ここベトナムにおいても経済的な事情でそこまで手が回らないという理由ももちろんあるだろうが、国が今より少しでも美術教育に力を入れようとするのならばそれにいくらかでも近づくことができるはずだ。

ベトナムは近年経済的には外に門出を開きつつあるが、美術教育に関してはいまだに100年前の価値観を引きずったまま鎖国状態にあると言ってよい。

経済的な成長と共に今、この国は教育・文化的にも大きな転換期に差し掛かっている。

過去の価値観に縛られることなく、現在自分たちの持っている価値観・文化を大切にしつつも、それと共に幅広く視野を広げ、まだ見ぬ新しい価値観を恐れることなく客観的な視点から自分たちを見つめ直すことによって今後の自分たちの進むべきより良い道が見えてくるのではないだろうか。

そのような比較対象を持つことにより、彼ら自身今まで気が付かなかった自らの持つ素晴らしい文化の再発見につながっていくだろう。

それは国の更なる成長のきっかけのひとつとなりうる可能性を大いに秘めている。
本来「美術」にはそのような力があると信じている。

私のようなボランティアが現場に入り、そこで若く新しい変化の兆しがいくら芽生え始めたとしても、やはりこの国の体制上、そこから先は国自らがそれに気付き、新しい扉を開いていこうとしなければ、現在の停滞した美術教育の状況はこの先も変わっていくことは無く、子供たちは「美術」の中に夢を見出すことはできないだろう。

続く ↓

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?