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日本国国際救助隊

【5137文字】

ロシアの暴挙のおかげで日本の国防を憂う声が増している。
命が最優先の穏健論者はTVでもSNSでも甘っちょろいと叩かれ、
やられたらやり返す、力に屈してはならない、倍返しだ、
などという威勢のいい言葉が飛び交う。
終いには「持たず、造らず、持ち込まさず」の、
非核三原則にさえ不要論が出ているそうだ。
果たして本当にそうなのか。

平時にはどうやれば戦争なんて始まるのだろう思っていたが、
他国の惨状を見て現実味を感じ取ったのか、
沸々と国内のあちこちから主戦論が湧き上がってくる。
なるほど、こういった感情がエスカレートして、
意外と簡単に戦争は始まるのだろう。
確かに他国の理不尽な態度を自由にさせておくのは許し難い。
いきなり向こうの理屈で殴られて怒らない者は居ない。
怒りはするが皆が皆100%殴り返す訳ではない。
反射的に殴り返す場合もあるだろうが、
実際はそうでない場合が多くある。
この両者の違いはなにかというと、
懸命な大人の判断をして踏み止まる場合もあるだろうが、
そうでない場合は殴る相手が殴りやすいか又はそうでないか、
という単純な判断なのだ。

相手が屈強な体格で武器でも所持しているとなれば、
確かに返り討ちを食らうのを想像してひるんでしまうものだ。
自分より強そうな相手には手を出しにくいというのが人情だろう。
つまり相手を殴るという事はコイツは弱いと断定している訳で、
要するにその相手をなめているという事でもある。
殴られる方もそれを敏感に感じ取ってカッとなる部分もある。
どうであれ弱いものを見つけては権勢を張ってみせるのは、
いじめっ子が弱い者いじめをする構図と何も変わらない。
だからだろうか、
共有であれ何であれ核を持つべきだという極論を聞くと、
なんだか稚拙すぎてむしろバカっぽさを感じてしまう。

大きな事件や事故、危惧すべき事象などがあると、
人々は慌てて予防策をあれこれ模索するものだ。
この反応は当然で必要な反応でもあるだろう。
問題はそのひねり出した予防策が本当に適切かどうかなのだ。
暴力には暴力を、核には核をという様な、
まさか4,000年も前のハンムラビ法典と同じ策がいいと思うなら、
歴史の知を積み重ねてきた現代人の程度が知れるというものである。
同時代を生きるものとしてそれはあまりにも情けなさすぎる。

問い続ける事こそが肥大化した脳みそを持った人類の、
恐らく唯一意義のある価値であろう。
もし思考停止しそれさえも拒否してしまえば、
我々は地球環境に対しロクな事をしないただの癌に過ぎない。
しっかり考えるべきだ。
そもそもその予防策は本当に適切なのかと問い続ける事。

池で子供が溺れたから日本中の池に柵を作る。
公園の遊具も危ないので撤去する。
公園や広場で球技やローラースケートもダメ。
酔っ払い運転するやつがいるからアルコール検知を義務化する。
何が起こるか分からないから、
死角が出来ないほど街中にカメラを付ける。
ハイジャックするから刃物や硬そうなものは持ち込ませない。
拳銃強盗されるから防衛で銃を所持する。
核で脅されないために核を持つ。
全てが対処方又は対抗法で問題の完治を目指さない。
犯罪ありきから始まる考え方で良かったのか。
犯罪が生まれた要因については突き詰められたのか。
問い続ける。

1億人中の1人が悲惨な事故や事件に巻き込まれると、
繰り返さないという目的で新たな決まり事がひとつ生まれる。
表面上はそうなのだが、
実際は責任の分散化が目的になっているという場合が多い様にも思う。
その決まり事の分だけ善良な1億人の生活をほんの少し不自由にする。
国民は良い事の様だしほんの少しの不便だからと我慢する。
1人の犯罪者によって全国民に少しだけずつ負担のかかる法律が出来る。
実際は1人の犯罪者と関係部署の責任者たちによってだ。
これがこうだからイケナイと端的に断定し、
何かしら手を下しこれで多少でも予防策はやったとする。
そういった事が日々どんどん積み重なっていく。
善良な全体が一粒の悪のペースに合わすというロジック。
果たしてそれで良かったのだろうか、問い続ける。

イタチごっこという言葉がある。
Aは穴を掘り続けBがその穴を埋め続けるという無限ループだ。
Aは折角掘った穴を埋められたと思う。
Bは折角平らな地面に穴を掘られたと思う。
互いが自分の目的以外に目を向けられなければ、
永遠にコレは繰り返される。
互いに正義があり、互いに怒り心頭である。
そして穴を掘ったり埋めたりする事その事自体よりも、、
自身には正当な理由、つまり正義があり、
それを乱す者は悪、敵だと考えるようになる。
一旦敵というレッテルを貼ってしまえばと、
相手が穴を掘ってようが埋めてようがもう関係ない。
憎い敵はつぶすというロジックが成立し次第に本論が消えていく。
そうやって報復合戦は繰り返され、
双方に耐えがたい憎しみが積み重なっていく。
このイタチごっこは子々孫々引き継がれ終焉がない。
一旦争いが終わったように見えても、
遺恨を残している以上必ず再燃し再びいがみ合う。
正当性とは何か。
正義とはどんな事か。
こうして俯瞰位置から客観視すれば、
互いの尺度で語られる正義こそが悪の根源にも見えてくる。

マハトマ・ガンジーは非暴力を通した。
殴られて殴り返せばイタチごっこが始まる。
正義はさておき少なくともいかなる場合であっても、
暴力は悪であると考えたガンジーは、
非暴力、不服従主義を貫いた。
暴力というのは暴力主義者同志の仲さえも分断するが、
非暴力は見知らぬ第三者の賛同を得て味方にする力を持つ。
暴力で何かを勝ち取るということは、
人々を恐怖で支配し蹂躙するという事だ。
簡単に言えば恐喝である。
そこに平和があると思えないのは誰の目から見ても明らかだ。
一方非暴力で何かを勝ち取るということは、
自由に意見を発せられる環境を得るという事でもある。
これを民主主義というのではなかったか。
非暴力で戦ったインドがイギリスからの独立を果たしたのは事実。

マーチン・ルーサー・キング牧師という人がいた。
人種隔離政策という劣悪で理不尽な法律下であっても、
またキング牧師に同調を示した人々が、
どんなに惨たらしく虐殺されても、
非暴力で戦った彼の考え方に最後は多くの白人も賛同した。
そしてそのエネルギーは消えることなく今もなお、
いわれのない暴力や差別と闘っている。
本当の平和は暴力に対抗する暴力の後にはやっては来ないと、
その都度何度も皆が実感したはずだ。

アメリカは現在もなお黒人差別という社会問題を抱えている。
そしてほんの60年ほど前のキング牧師が立てた功績を実感している。
暴力は非暴力に最終的には勝てないんだと経験上知っている。
日本で銃は簡単に所持できない仕組みになっている。
だれも銃を持っていないという事実は、
とてつもない安心感につながり、
人々の安心は街の安全と経済発展の礎となっている。
そんなことは日本人なら全員が知っている事だ。
暴力はキング牧師の命も含め、
多くの優しさや価値ある知性と勇気を踏みにじって来た。
暴力に対し暴力で対すれば必ず遺恨は残り、
果てしないの戦いを子や孫に残してしまう結果になる。
感情的で一過性の恫喝に頼るのが、
どれだけ危険な事かを知るべしであろう。
未来永劫つまらぬ意地を張り続け、
家族と子々孫々の命をかけ続けたいと思うのか再考して欲しい。
この刃物が見えないのか。
銃口はお前に向けられている。
我が国は核保有国。
こういった言葉から平和が訪れると本気で思っているなら、
その者は本当の目的が何だったかを完全に忘れて、
いじめっ子が稚拙な優越感や恫喝の威力を誇るのと同様、
最終的には身を滅ぼしていく羽目になるのだ。
そんな姿を最近ロシアの元首に見たはずではないか。

ロシアはウクライナ侵攻当初に核攻撃について言及し、
NATOや米国など西側諸国に脅しを仕掛け牽制した。
通常兵器だけならロシア1ヶ国に対し、
NATO30ヶ国では多勢に無勢でロシアに勝ち目はないが、
核をちらつかせて軍事的に西側諸国を黙らせるという手口は、
まだ思慮の未熟ないじめっ子が腕力にものを言わすのと同じ手口である。
もしウクライナに核武装があれば、
実際のロシアは軍事侵攻などしなかったのではないか、
というのが多くの所見の様だが、
互いにナイフを突きつけ合う未来に、
真の平和が訪れるはずもない。
そんな短絡的な判断しかできない国に、
明るい未来があると思う方がどうかしている。

誰も暴力はふるわないし、
誰もナイフを持ち歩いていないし、
誰も銃を所持していないし、
誰も核弾頭を持っていないという世の中になれば、
当然ながら悲惨な出来事は起こらないのだ。
平和を勝ち取る事が困難であるなら、
核を持ち合ったり戦争したりするより、
破滅へ導く危ないものは何も持たないよう努力した方が、
結果としても良いに決まっているが、
残念ながら人間の歴史は確かにそうではなかった。
むしろより多くの命を虐殺する兵器開発にいそしんできた歴史だ。

この事実を前にすれば、
我々は未熟なのだと言わざるを得ない。
未熟である事を真摯に受け止める事から始め、
その後どの様にしたらもっと世界は良くなるのか、
世界中がもっと安全でいられる方法はどうしたらいいのか、
未来の心配なく子供たちが平和に暮らすには今何をするべきか、
80億人それぞれがそれぞれの立場で考えればいいと思う。

さて、ここからは筆者の理想を語る。
日本がこうあってくれたらいいなという方法論だ。
非現実的だと笑い飛ばしていただいても結構。
しかし高く崇高な理想こそが成し得る境地があると強く信じたい。

日本は現行の憲法9条に則り、
先ず、軍隊との違いが曖昧な組織の自衛隊を解体する。
これに代わり日本国国際救助隊 、
Japan International Rescue J,I,R,(名称は仮)を設置する。
文字通り国内に限らず、
海外に対しても積極的に人命救助に当たる機関である。
世界のレスキュー隊として可能な限り手を差し伸べるのだ。
最新鋭の機器、技術、そして洗練された人材でこれにあたる。
旧自衛隊の人員や装備をそのまま移行させればよい。
現在毎年5〜6兆円を費やす国防費も当面そのまま移行させる。
そもそもこれまでの災害時にも既に活躍していた訳なので、
重火器は全て排しレスキューや医療の分野などを伸ばせばいい。
変に重火器の備えがあればかえって危険になる。

恩を売るとか性善説だと言われたらそれまでだが、
そう思うのならそれでも構わない。
人に親切にされれば悪い気がしないのは当然なのだ。
覚書や条約とかで人の動きを規定するのでは無く、
人の命や心への力添えをすることで、
本来人間が持つ相乗的な助け合いの火付け役を買って出るのである。
生活や命が危ぶまれる人たちに対し、
人としての尊厳を守る仕事をするのだ。
約束事というのではない。
もとめられば即それに応じられる組織だ。
そういった仕事に現在の自衛隊の様なボーダーラインはない。
ここまでは防衛であるとか集団的自衛権であるとか、
いちいち解釈は不要なのだ。
人を救う事にここまでというラインは無い。
可能なことを最大にするだけなのだ。

核共有だ、専守防衛だ、敵基地攻撃だなどという腕力論議はやめて、
全力で命を守るのだという使命に専念する。
暴力で戦うのではなく非暴力、
ひいては人を助ける力をして暴力と戦うのだ。
戦地では市民を救い、災害地で被災者を救う活動をする。
政治的イデオロギーなど関係なく人命を救う。
当然と言えば当然の仕事を国家を上げて行うのだ。

敵攻撃に対しては日米安全保障条約がある。
「そんなもの役に立つものか!」という向きも分かる。
今回のウクライナ侵攻を見ていても、
いざという時米国は無責任に逃げてしまう可能性はあるだろう。
しかし全世界で救助活動をし成果を上げている日本を、
他の同盟国が冷静に見つめる中で、
果たして米国は簡単に日本を見捨てる事が出来るだろうか。
これが非暴力共助力の力である。
ひいては全世界が認める国際救助国に対し、
侵攻や攻撃ができるだろうか。
これこそが本来の人としての力なのだ。
今回のロシア軍の侵攻も国際世論は一気にウクライナに傾いた。

高度経済成長の終焉以来この国は目標を見失い続けてきた。
自分たちの世界における役割を明確にするだけでも、
手探りだったやるべき事や進む方向は示されるだろう。
目的が明示されれば産業は活性し経済は回り出す。
ガンジーやキング牧師が証明した非暴力という力を、
国家レベルで体現する最初の国になればいい。
そうなればこの国も国民も再び世界に胸を張れるだろう。
それでやっと本物のグローバルと言えるのだと思う。

夢絵空事と思わば思って頂いても良い。
すぐには実現出来そうにない事でもある。
しかし目標として掲げておくことぐらいは出来る。
目標を持てれば力の入れ場所が分かる。
力を入れ続けた場所には筋力が付く。
軍隊や重火器の数、核抑止力よりももっと強い、
平和的で人道的で恒久的な力を付けられたらと、
筆者は夢想して止まない。