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誰かの想いを待つ余白③

そして①と②の間にある壁面に展示されていたこちらの作品。
大きな油彩と、その隣にイーゼルに掛けられたスケッチが展示されています。

「祈りとしての風土」
「祈りとしての風土のためのスケッチ#1」
「祈りとしての風土」

「祈りとしての風土」
2023 Oil on canvas, H227.3×W181.8×D6.5cm
2023年11月現在、許可なく行ける場所で、福島第一原発を肉眼で見ることができる場所を探しスケッチし、スケッチしたことを含めモチーフにし描いた。

『化石としての風/復興としての土/祈りとしての風土』作品リストより

今回のメイン作品と思われるこちらの作品。
150号ととても大きな画面に、非常にラフなタッチで景色が描かれているのが印象的な作品です。
これまで見てきた他の油彩作品は作家の視点や世界観を元にかなり作りこまれた画面であるように感じたのですが、この作品にはそういった作家の支配性を良い意味であまり感じない、とてもリラックスしたようなゆるい空気を感じました。
特に、雑木林の間から見える抜けるような空が、キャンバスの白い下地をそのまま残して表現されていることに目がいきました。

「祈りとしての風土」近景

風景の中にイーゼルに立てかけられたキャンバスが描かれており、その画面に厚みのあるマチエールで復興が進む福島第一原発の今と、ここに暮らしていた人々の家々が並ぶ町の風景が描かれています。

絵の中に絵が描かれているという入れ子構造のような画面で、非常にトリッキーな印象を受けました。

この作品の横にはイーゼルと色鉛筆で描かれたドローイングも展示されており、作家の意図を強く感じます。

「祈りとしての風土のためのスケッチ#1」

「祈りとしての風土のためのスケッチ#1」
2023 Colored pencil on Japanese paper
2023年11月現在、許可なく行ける場所で、福島第一原発を肉眼で見ることができる場所からの風景を描いたスケッチ。

『化石としての風/復興としての土/祈りとしての風土』作品リストより

この作品について加茂くんから解説を受けたところ、この絵は福島第一原発が立地している大熊町のある高台の雑木林で、実際に作家がイーゼルを立て、そこでスケッチしたものを元にして出来た油彩作品であるということでした。
油彩のタッチが非常に軽いことについて質問をしたところ、
「色鉛筆でスケッチしたときの感覚でこの油彩を描きたかった」
との答えをもらいました。

それらの話を聞いた上で、私はこの作品は絵というよりもインスタレーション作品のような、どこか演劇的な空間芸術の要素を感じました。
加茂くんが大熊町のその場所で感じたことを、どうしたら鑑賞者にもそのリアリティを損なわずにアートとして提示することができるだろうか?というテーマについて、真っすぐに向き合っている試みのように思えたのです。

画家にとってのスケッチというのは、対象を描くことを通しながら、それを自分なりに捉え直すという行為であると私は考えています。
加茂くんも、スケッチをしながら様々なことを感じたはずです。

この絵の前に立つと、まるで自分が大熊町のこの雑木林に立ってスケッチをしているような気分になります。
「もしあなたがここに立ったら、どう感じる?」
そのような問いかけが聞こえてくるように感じ、そんな心理を誘発するためにこのような舞台装置のような展示形態がとられているのではないか?と思いました。

「この絵の前に立つ、あなたの地続きに、この風景は繋がっている。」

そして、このような事実をこの絵の前に立つ鑑賞者に示しながら、それを自分の事として捉えてほしいという、作家の密やかな願いのようなものもそこには一緒に含まれているようにも思えました。

そのように考えると、空として表現されている真っ白な何も描かれていない下地のままの余白が、まるで鑑賞者のどんな想いでも全て受け止めてくれるような大きな器の役割をしているように思え、この雑木林の風景が非常にあっさりとした、リラックスした筆致で描かれていることに深い意味が隠されているように思いました。

心に問題を抱えたクライアントの前にまっすぐ向き合って座る、誠実なカウンセラーのような。
そんな絵に見えたのです。
心理的安全性が担保された空間の中で、初めて一番目を逸らしたい事実に向き合うことができる。
そんな空間をもしかしたらこの作品は目指しているのかな?と思いました。

それは作家が単に自分の思想や心情を作品に表現するという一方的なものではなく、鑑賞者の心にいかに働きかけることができるのかという「双方向のコミュニケーション」に重きを置いているからこその表現なのではないかと思います。
鑑賞者が重く受け止め過ぎることのないよう作家の主張をなるべく抑え、事実である要素のみを出来るだけ軽く表現しようとしている。
その表現の端々に、他者に対する気遣いや配慮といった作家の繊細な感性を感じられました。

この作品は、加茂くん自身が②の連作のモデルとなったこの地に現在住む人々との関わりを通し、この地に自分自身を近づけたからこそ持つことができた個人的なミクロな視点と、原発事故が表す現代の社会構造の問題を俯瞰して見ている作家としてのマクロな視点という二つの視点をその両目から作品に投影しながら、更に鑑賞者という第三者の心の目の中にどうしたらより深く映りこませることができるのか?という難しいテーマに立ち向かう、新たな試みに挑戦しているように私には感じられました。

それは同時に、経済成長を中心とした資本主義社会の危うさを示すような象徴的な場所となった「フクシマ」の過去から現在までを、自分自身の目でしっかり見据えようとしてきた作家のその視野が、それ以外のより広い世界とこれから先の未来にまで広がっていることを表している、そんな新しい取り組みの始まりにあるように私には思えてなりませんでした。

誰かの想いを待つ余白④に続きます。

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