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ふわっと口語で愉しむ『言志四録』 今週の言葉「171 自然に学ぶ」+chat「不自然な人間」

171 自然に学ぶ

空を見上げたり、
遠く大地を眺めると、
太陽も月も輝いて
星も燦然としている。

春の風は穏やかに生命を育み、

つづきは↓
ふわっと口語で愉しむ『言志四録』まとめ

chat「不自然な人間」

 人間は不自然な生き物なのでしょうか? それとも人間も自然の一部なのでしょうか?
 私たちは余暇、旅行で自然を求める傾向があります。その一方、都会を求める傾向もあります。人工物に囲まれている世界と、人工物が少ない(皆無はさすがに少ないから)世界。これは、対立した存在なのでしょうか? 都会と田舎、自然と人工物、二者択一ということはないはずです。
 そもそも、人間は生き物である点では自然の一部のはず。それが不自然な存在になっているとすれば、不自然さえも自然という詭弁も成り立つのかもしれません。
 ChatGPTが羅列した人間が不自然な理由は主に次の3つです。
 ・技術の進歩
 ・環境の変化
 ・文化や社会の影響
 つまり、人間は自然を変える技術を持ったから。極端なケースではほぼ人工物の中だけで生きていくことが可能になったから。そして、環境。地球温暖化のように化石燃料を使い続けたことによって地球規模の異変を引き起こすまでになりました。これは技術を持ったことで自然淘汰から外れて、人口増加、長寿命化を実現したことも一因でしょう。さらに人間は文化や社会を持つ生物です。ライフスタイル、生き方、社会のルールといったものを見ていくと、「自然に帰れ!」と主張することは、人間社会から外れてしまうことにもなりかねないのです。つまり不自然であれ、ということでしょう。
 また、ChatGPTは、こうも指摘します。
「人間の存在は自然界の中で特異な存在であり、他の生物とは異なる文化や社会を築いてきました。しかし、それらは自然の多様性や進化の一環として捉えることができます。人間の不自然さも、自然の中での進化と結びついた特異な表現として捉えることができるでしょう。」
 人間は自然をコントロールしながら生存する道を探ることになるわけですが、それはどこまで可能でしょう。
 ChatGPTは、「自然を完全にコントロールすることはできませんし、そのような試みには制約やリスクも存在します。」とします。
 その考えの前提として「自然の持つ複雑性と予測困難性は人知を越えている」との考えがあるようです。そのため、人間によるコントロールは、それによって未知の変化や災厄(人間にとっての、ですが)を招く可能性が常につきまとうと考えるのです。そのリスクはそもそも人知を越えているので、人間には負えないリスクとなるでしょう。
 さらに生態系を含め自然の持つバランスが崩れていくきっかけとなる可能性もあります。人間にとっていいはずことが、さらに悪いことを引き起こす可能性です。
 また、たとえば降雨を人工的にコントロールできるようになったとしましょう。これは、大規模な自然災害を防ぐことになります。と同時に、水資源を管理できる、途方もない権力を手に入れることにもなります。それを誰かに委ねていいものか、どうか。これは、IPS細胞やさまざまな治療薬にも言われるような倫理的な問題がつきまとうことを示しています。
 かつては、「自然から学ぶ」ことが人間の進歩につながったのです。いまもそれは続いてるでしょう。同時に、そのときの倫理的な側面(人間としてどこまでやっていいのか?)も大きくつきまとうことになったのです。
 自然を畏れ敬う気持ちの大きかった人間も、いまは荒れ狂う自然をコントロールして欲しいと願うようになっており、社会の中での自然についてさえも「責任の所在」を明確にしようとする傾向が強くなっています。
 果たして人間はどこまで不自然でいられるのでしょうか? あるいは自然でいられるのでしょうか?