私たちはちょうど始まったばかり(3)

化学兵器とゲート


 電車のなかで十分に温まった身体も、駅を出て大学の正門に着くまでには冷えに冷えていた。門からのびる広い通りには銀杏がまき散らされていて、踏み入れる前から強烈な臭いを漂わせていた。
 けれど侑二には、遠回りをしているほどの余裕はなかった。それどころか駆け抜けなければ遅刻、というほど危機的状況だったのだ。意を決して小走りのまま――とはいえなるべくそれらを踏まないように――進み入った。健が、「まるでドイツの化学兵器だ」なんて笑っていたけれど、いまはそれをまともに受け入れてしまいそうだ。
 よかった、あと一分――。エレベーターを待たずに奥の階段を使ったおかげで何とか間に合った。託人のいるのを見つけて、そこへ座りにいく。第一声は非難だろう。
「おい、銀杏くさいぞ」
 必死に避けていたつもりだったが、きっと一つや二つに収まらないほどの銀杏を踏みつぶしてしまったんだろう。
「汗がやばい」
 侑二はそう言いながら、紺のトレンチコートを丸め、去年一目惚れした――透子でさえ「侑二君にしてはいいのね」と褒めた?――お気に入りのセーターまでも脱いだ。それでも汗はふき出し続ける。
 いっそクーラーをつけてほしい、なんて思っていると、教授が入室してざわついていたのが落ち着き始めた。後期も中盤になると欠席者が増え、全体的に大人しくなる。これは侑二にとっては好都合だった。
 侑二はいたって真面目に――講義を聴き、ノートを取り、そして汗を拭きながら――この九十分間を過ごした。託人はというと、その気はあるようだが終始うとうとと船をこいでいた。これも毎度のことで、ベルがなると目を覚まして、侑二のノートを写真で撮らせてくれと頼みだす。
 いつも通り託人が撮っている間に、侑二はせっせとセーターをかぶった。それから二人は荷物をまとめると、今度はエレベーターで、学食のある一階へと下りた。
 春では考えられないお昼時の食堂の静けさに、侑二は快適さを感じていながらも少し寂しくもあった。別に、騒がしいのが好きな訳ではない。ただ、これほど騒がしいところなのか、と嫌厭していただけに、肩すかしを食らったような気分にさせられるのだった。
 託人は決してまずいとは言えない程度のラーメン、侑二はここのメニューの中ではお気に入りの油淋鶏をもって席についた。
 そのまま黙々と食べていると、
「ここに来て急な進展になるとはな」
 と、託人は手を止めずに、昨日ラインで話したことを掘り返した。
 侑二はこの間の夏から、長いこと夢だった一人暮らしを始めている。このために、一年生のときから大学生にしてはかなり厳しめの節約と貯金を続けていた。そして、このことは当然、透子にも話していた。
「ただどんな風か見てみたいってだけな気もするけどな」
 侑二は、このことに関して期待なんか一切ない、という意思を込めて、ペースを落とさずに少し辛い油淋鶏を食べ続ける。
 もう三年にもなるんだから、互いの実家に行ったこともあれば親にだって認知されている。そのことはときどき侑二を、侑二と透子が置いてけぼりをくらったような気分にさせる。周りの期待とか、月日だとかに。
 ふーん、みたいな返事も託人はしないまま、色の薄いラーメンを食べきってスマホを眺めていた。おれも早く食べるか、とまた油淋鶏を箸でつかみにかかると、託人と侑二の、二人のスマホがほぼ同時に震えるのが分かった。え、と託人は驚いて画面をこちらに見せてくる。
「健が彼女できそうだって」
「いや、今までだってそんなこと言ってたろ」
 もっと何か面白いことを期待していた侑二はがっかりして言い捨てた。
 そうなのかなあ、と託人は侑二に向けていたスマホを戻して見つめていた。

 待ち合わせは、彼の今の家の最寄り駅だった。その駅は大学から近くて相場の安い、という条件にぴったりだと思わせるところだった。
 ホームを降りてさらに階段を下って改札まで来ると、真っ昼間だというのに眩しいくらいの白で照らされている。透子はそれがどこか異世界へのゲートのように思えて、少し憂鬱な気分になった。
 そのゲートを出ると、透子は本当にあれがそういうものだったのかと錯覚する。歩道が狭く片側にしかない道路、もはや空き地に見える駐車場、さらには外灯の間隔もやけに広く感じる。まるで都心じゃない――つまりは、透子のこの街における第一印象はあまりいいとはえなかった。
 約束の時間になった。これほど付き合っていて、侑二は――どうしようもないときを除いて――遅刻をしたことがない。しかし決して早くいることもない。透子が先にいると、こんな風に――ひょっこり顔を出し、透子を見つけてはにっこりと微笑む。
「おはよう」
 侑二は透子に近寄りながら声をかけた。もうお昼よ、と侑二がさっきまで寝ていたことを推測して諭すように言う。自分の口角が勝手に上がってしまうのを自覚する。会うまでの憂鬱なんて、会ってしまえばそれきりなんだ。
 あはは、と侑二が笑う。そして、こっち、と先導した。
 後ろについていきながら、透子は改めて侑二を羨ましく感じる。いいな、楽しいということをちゃんと相手に伝えられていて。
 侑二に案内してもらうことに見なれない新鮮味を覚えながら、透子はここの土地勘を得ようと必死だった。
 大通りから右に小路をしばらくして、
「このアパート」
 と侑二は自慢げに言った。
 大学生が住むようなところだと、勝手にぼろアパートを想像していたために目を疑ってしまった。もしくはごくたまに言う、侑二のつまらない冗談かと。
 透子が何か感想を言う前に、侑二はそのコンクリートの中へと入っていった。
 侑二の部屋は、やっぱり想像通りの狭さだった。1DKの六畳で、けれどあまり物が多くないため二人でも窮屈には感じなかった。透子は入って右の本棚の上にあるオーディオコンポを見つけた。
「ねえ、何かメランコリックな曲を流して」
 透子は楽しかった。いつもよりも侑二の内側に入れた気がしたから。
 いいよ、と侑二はコーヒーの入ったマグカップをこちらに運びながら快諾してくれた。もし訊かれたら、透子は紅茶を頼みたかったのだけれど。
 期待をしていながら、やっぱり侑二の選曲に対する不安はあった。妥当にシューベルトあたりで良いんだけど――。
 侑二のオーディオコンポを操作する音が止むと、低いけれども軽快な旋律をファゴットが奏で始めた。一瞬、透子の思う最悪の選曲が脳裡をよぎるが、聞き間違いかもしれない、とまた耳を傾ける。
 一つのテーマが終わり、参入楽器が一気に増え、ふわっと明るくなる。押し引き具合たまらない。やっぱり一番好きだ。けれど、違う。
「メランコリックでチャイコフスキーだなんて、信じられない」
 言ってしまった。透子はとっさにうつむいた。
 けれど透子は本気だった。本気でこの男を憎らしく思った。
 侑二は自分の選曲センスにかけらの間違いもないと思っていたらしく、純粋に驚いていた。
 弦と金管の掛け合いがこの薄暗くなり始めた部屋中で響く。侑二と透子の二人だけでなく、家具や小物たちもその響きを吸収しているのが分かるくらいだった。
 この人は、私が以前した話を忘れてしまったのだろうか。お互いにクラシック音楽が好きなことが判明してしばらくして、透子は一番と言っていいくらい大好きなチャイコフスキーが「メランコリック」に分類されることがどうしても我慢ならない、と言ったのだった。確かにそうだ、なんて侑二は返事をし、メランコリックというより叙情的だよね、と同意してくれたのに。
 透子はそれから、また別の怖れを抱いた。これまで自分のしてきた話も、同じように聞き流していたのではないか、と。
 一度それが思考に入り込んでしまってから、透子は侑二の顔を見づらくなってしまった。
「ああ、ごめん」
 侑二は動揺を隠しきらないまま立ち上がり、曲を変えにいった。

今まで一度も頂いたことがありません。それほどのものではないということでしょう。それだけに、パイオニアというのは偉大です。