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浮遊する舞台(三人称)

 男の部屋には、ひとつの小さな出窓があった。男は、諦めを糧に小説家を夢見ていた。
 昏い部屋で、電気をつけるのも忘れて、月明かりで目をこらしながらちょうど一節、切りの良いところまで書いたところだった。それは新人賞に出すものではなく、ただの習作であり、ただ年齢からくる焦りを紛らわすためだけの小説だった。
 男はだんだんと簡単にはとれにくくなった肩こりを――それも気休めに過ぎないことを知っていながら――ほぐそうと、左右の腕を気まぐれに回した。書いているときに気づかない分、こうやって我に返るとひたすらに痛むのだった。
 小説を書き始めたのは、高校三年生のときだった。受験勉強に倦み、かといってゲームだとか遊びに手を出すのには罪悪感がつきまとったため、小説に手を出した。そしてそれは、受験生として最低な悪手だった。それまであまり好きではなかった作文とは違い、作法も何も知らなかった男は自由に、縦横無尽に書いた。行き詰まりそうになり苦しくもなったが、それも含めて楽しんだ。
 そして、志望校に落ちた。
 合否が発表される頃には三つ目の短編の構想に取りかかっていた。将来のことなんかより、もっと小説を書きたいという意志に占められた男は、浪人せずに滑り止めに入学した。それを今になって後悔しているわけではないが、当時の傾きぶりに苦笑は禁じ得なかった。
 大学に入って成り行きで文芸部に入るも、やはり程度の低いものだった。ただ、とある二つ上の先輩の小説だけは面白く、男は自然と懐いた。その先輩は無事就職し小説を書くことをやめた。男は書き続けて就活をしなかった。
 先輩がいなくなってから毎年新人賞に応募しており、次で十三回目だった。八十四回目の不漁と、似たような心境だった。
 男は出窓に目を向けた。電気はつけない。満月ではないが、目を瞠るほどの明瞭さを保っている。しばらく、その月と流れのはやい雲との対決を眺めていた。顔を寄せて出窓の下方を伺うと、月を霞ませる意志を感じさせるようにこうこうと外灯を張り巡らせている公園があった。
 男は書きかけの原稿用紙を閉じ、着替える等の外出に向けた準備をした。何となく、なるべく動きやすそうな服装を選んだ。

 男は、無遠慮に明るい公園に不自然かつ自然に導かれた。公園は広いわけではないが、遊具のある側と砂以外何もない側でちょうど半分になっていて、後者の方はとりわけ灯りが多く、つよかった。それはもう、見た者にそこが舞台だと錯覚させるくらいには。
 公園の入り口に着き、男はアパートを出たときに点けた煙草の火を電信柱で押し消し、笊より粗い網目のゴミ箱につぶれたそれを放(ほう)った。
 砂しかないところは二メートルか三メートルくらいの――つまり人の背よりは高い――フェンスで囲まれている。その入口の近くのベンチに腰かけた。
 どうしてここに、外に出てきたのだろう。衝動か無意識か、あるいはそのどちらもが混ざり合ったのだろう、と男は早々に結論づけた。考えるのが面倒だと言わんばかりに、無精で盛(さか)った顎髭を掻きながら。
 実際に園内に入りベンチに腰かけると、出窓で眺めていたときよりも一層月が霞んで感じられた。月明かりなんて無いに等しいのかもしれない。男は無性に申し訳なく思い、努めて灯りではなく月に目を向けた。
 男はあるひとつの自分の好きな小説を思い出した。その小説では一人の登場人物が、砂浜をうろついていた。本人曰く、海の奥に見える月を目指しては溺れて、を繰り返していたのだ。
 その話を思い出して、男は何となく自分も月を目指したいと思った。しかし不格好に欠けた現実の月は、ほとんど男の真上にあった。歩けはしないし、飛んだとしても太陽のように身体の一部を焼かれて墜ちるだけだと知っていた。
 男の顔は、先の見えない執筆に窶れ、疲れ、飽和状態にあった。だから、こんなことを思いついたのだろう。
 男は立ち上がり、舞台の中心へと向かった。理性と本能が一緒くたな状態だった。異常でもあった。
 中心まで行き着くと、男は手始めに思いきりジャンプした。着地をし、足をリズムに合わせて歩いたり止まったり、足踏みさせたりした。勿論音楽など流れていない。だから常に不安定なリズムをキープしていた。
 足取りが安定してくると、次は肩から先の腕や手を動かし始めた。なるべく無作為に。ただ同じパターンの繰り返しだけを嫌った。
 男はダンスの基礎などまるで知らなかった。ただ知らないからこそ、自由で、何にも囚われなかった。ちょうど男が小説を書き始めたときのようだった。
 手足に続き、腰や頭まで使い出した頃だった。誰もいないと信じ込んでいた公園の周りを、一人――若い男――が通りすがった。男は焦る。なぜなら、向こうよりもすこし遅れて相手の存在を認知したからだ。
 若い男はしばらく男の様子を観察していたが、急に――機械が意志を持ったかのような俊敏さで――入口でもないところから園内に入ってきた。さながら闖入者だった。
 男は身体を動かすのをやめた。突っ立って真っ直ぐに自分の方に向かってくる若い男に目をこらした。通報される風ではない。そんな正義感を抱いて歩いているようには見えなかった。むしろ、共犯者に思えた。
 若い男は意識をはっきりと公園で踊っていた男に向けて歩いた。そして、フェンスの入口をくぐったあたりで停止した。互いのなりをしげしげと見合ってから、若い男が口を開いた。
「撮らせてもらえませんか」
 男は急な発声にたじろいだ。が、若い男の首からさがるカメラ――男はカメラのことなど全く分からなかったが、それが何十万もするような代物でないことだけは分かった――を確認していたので、返事に窮しはしなかった。
「撮るって、写真を?」
 男は自分が有名小説家を気取って言ったように感じて、合わせていた目をカメラに落とした。
「いえ、動画――映画です」
「もしかして、さっきのをか」
「はい、ダンスを」
「ダンスって、そんな――」
 男は、服装や短髪の感じからしてどちらかというと浮ついた、とくに何も考えていない奴だと偏見づけたが、若い男は真顔だった。冗談なのか本気なのか、男は判断に困った。
「君はその、映画を撮ることはよくあるのか」
「いえ、今回が初めてです」
「映画が好きなのか」
「はい、最近好きになりました」
 ここで沈黙が生まれる。こういう沈黙の発生は、もしかして宇宙の誕生と似たものがあるんじゃないか、と男はよそのことを考えた。
「ダメですか」
 若い男はすぐにでも頼み込むためににじり寄りそうな勢いを持っていた。自分も若い頃はこうだっただろうかと、男は逡巡した。
「いや、いい……やろう」
 男がそう言うと、若い男は猫目を線にして無邪気な笑顔をつくり、やった、と呟いた。

 若い男はカメラの準備に取りかかりはじめ、どこから撮るのかを決めることにひどく苦心していた。
 対して男は何も考えなかった。さっきと同じことだけをやろうと決めていた。基礎や手法がないのなら、自分でつくり出すだけだった。それは男を孤独にした。
 だがそれよりも、先ほどから若い男について妙な見覚えがあった。とはいえこんな若い人間とのつながりはおろか人間とのつながりさえ年々希釈されていく男は、他人の空似と決めつける外なかった。
「ここにします」
「そうか」
 男はちらと若い男を見て、目が合う前に下を向いた。何を格好つけてるんだと、自分に毒づきながら。
 微かにピッと音が発せられる。つづいて、はい! と若い男が合図した。そして、男は動き出す。
 さっきと同様に、足、腕、腰、頭の順に稼働させていく。だが今回はその間隔が短めになっていた。より一層孤独になるためには、ただのコピーなど不要だからだ。
 しかし、男はうまくやれなかった。さっきがうまくやれていたわけでは決してないが、今回は「うまくやれていない」という念がしつこく付きまとった。男は崇高な対象を見失っていたのだった。そのダンスは月ではなく、カメラに映る自分へ向けられていたからだ。
 そこで男は、近頃小説もうまく書けていないことを思い出した。迎合はしていないとはいえ、昔と違い縋りついて書いていた。それは夢という、どうしたって掴みようのないものだった。
 男はダンスを中断しなかった。別に一回きりと言われてはいないが、一度止めにしたら全てが崩れると思ったのだ。ダンスだけでなく、男の全てが。
 突然、砂地を囲む外灯のひとつが点滅を始めた。もうかなり消耗していたのだろう。まるでフラッシュだった。人工的な月が、生命を賭して演出にかかっていた。
 男の汗は泉のように湧き出で、永遠に枯れないかのように思われた。汗を散らし、不器用にがむしゃらに身体を動かし続ける男は、ひどく不様だった。それでも、中断はしなかった。
 人間は、美に憧れる生き物だ。その内実は、自分が美であるどころか醜であることを認めていることがあるのかもしれない。しかし男は、自分がいま思いきり醜であることを誇りに思っていた。美しくあっては、それは人間ではないからだ。自分が人間であるということを、男は生まれて初めて意識していた。
 男は体力のある限り舞い続けた。若い男が「カット!」と叫んでいても止めなかっただろう。それだけに、終演は唐突であっけないものだった。
 腕に重心を持っていかれ、足がもつれて、男は派手に転倒した。受け身をとる余裕はなかった。これぞ有終の美だと思い、そのまま一切の動を止めた。楽な体勢も取らないまま、若い男が録画を停止するのを待った。
 もうすぐ秋が近づいていることもあり、どこにいるのかも分からないただ一匹の蝉の鳴く音だけが、公園には在った。
 やがてピッという音が鳴り、若い男はその場に座りこんだ。ピントの合わない目で、ただ倒れ込んだ男を中心に置いていた。
「お疲れ様でした」
 待っていたその言葉を聞き、男は上体を起こして胡坐をかいた。左手で右肩に汗でこびりついた砂を払いながら、右手で同じ側のポケットから煙草とジッポーを取り出した。男と若い男を隔てる距離は、二メートルもなかった。
 男のジッポーはもうオイルがほとんど切れかけていた。何度も発火石をこすり、点火に苦心していると、
「あっ月が」
 と若い男が言った。
 男はそれを聞いて、まず若い男を見た。彼もまた煙草に火を点けようとしていた。しかし、若い男の咥えるそれはやけに細く、その上ターボライターを使っていた。男はその二つを見てすこしがっかりした。
 そのまま若い男の前を見上げると、月がたくさんの外灯に負けないくらいに光を反射していた。月は見事に雲に勝利していた。よく分からないが、ダンスの甲斐があったのかもしれなかった。
「いい月だと思わないか?」
「思います、あの、とくに欠けているところが」
「あれは失われたんだ」
 男は何とか火を点けられ、一吸い目を大層美味そうに呑んだ。そして吐くのが惜しくてたまらないといった具合にゆっくり吐いた。
「一回全部なくなって、新しい月がまた顔を見せるんだ。同じ月はない。同じ日が二度と無いようにな」
 若い男は全く要領を得ないが、男の持つ説得力――それはきっと年のせいだが――に押され、肯いた。
「腹がへったなあ」
 男がそれとなく言うと、すぐに若い男が反応した。
「何か食いモン買ってきますよ」
 男はその申し出に小さからず驚いた。出演料のつもりだろうか。まともに協力なんてしていないし、勝手に感謝されているようでむずがゆかったのだ。
「ギョーザでいいですか」
 えっ何故ギョーザ――と思いついた時点で、男は納得した。
 男はギョーザが大好物だった。ただ、ぱりぱりの熱いやつも勿論好きだったが、へなへなの温いコンビニのそれはもっと好きだった。男はいつもそれを同じコンビニで買っていた。若い男の顔に見覚えがあったのは、そのコンビニの店員だったからだ。よく来るわ大抵同じもの――へなへなギョーザに麦茶、そしてピースの三点セット――だわで、男の顔も認知されていたのだ。思い返せば、iD払いが最初よりもずっと手際よくなっていた。
「ありがとう」
 男は取って付けたような苦笑いで、若い男が立ち上がり園外へ出て行くまでを見ていた。フィルターぎりぎりまで吸いきって、地面で消火し、上体を後ろに倒した。すると自宅の出窓とちょうど目が合った。男は特に笑顔も苦笑もつくらなかった。家を出る前に中断した小説の続きを、考え始めた。

今まで一度も頂いたことがありません。それほどのものではないということでしょう。それだけに、パイオニアというのは偉大です。