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河野太郎とゴルバチョフ。

これまで数本に渡るエントリーの中で何度も「河野支持」を表明してきた私が、今更こんなことを言うのはあれかもしれないが、もし河野太郎内閣が成立したとしても、現在における日本政治の惨状を完璧に救うことはできないのではないかと思っている。

私は今までのエントリーで何度も「河野太郎はゴルバチョフである」と述べてきた。ゴルバチョフといえば改革者というイメージが色濃くあり、自分もそのイメージを強く持っている。ゴルバチョフを中央政界に引き立てたアンドロポフが菅義偉と似ている(改革派で、同郷人)という共通点などもあるので河野=ゴルバチョフ説を提唱してきたのである。しかしゴルバチョフは改革者であると同時に「破壊者」でもある。実際彼がやったことはソ連の改革ではなくソ連の崩壊・破壊だったことはよく知られた事実である。

ゴルバチョフは老朽化したソ連をもう一度蘇らせようとペレストロイカ(立て直し)政策を推し進めた。彼はあくまでもソ連を復活させようとしていたのであって、断じて壊そうとしていたのではない。これは当たり前で、まっとうな国家の指導者なら、愛する祖国をこの手で破壊するような愚かな真似はしない。しかし結果的にはソ連は崩壊。連邦を構成していた数多くの国々が独立し、冷戦と言う名の第三次世界大戦はソ連を中心とする社会主義陣営の敗北という形で決着がついてしまった。なぜだろうか?

それはソビエト社会主義共和国連邦という国が、すでに改革に耐えることができないくらい老朽化した老いぼれ国家だったからである。いわば、まだ体力のある若者向けの健康法である市場原理の導入や情報公開制度(グラスノスチ)を一気に施したために、老体化したソ連という国が耐えることができず、五臓六腑が張り裂けるように内側からメタメタに破れてしまったのである。

ソ連は制度疲労が激しく何らかの処置を施す必要はあった。しかし、あまりにも性急に改革を急ぎすぎたために体のほうがついていけず、悲劇的な最期を迎えることになってしまった。必要な改革でも時期と量と速さを見誤ると毒になるということだろう。

さて、振り返ってわが日本はどうだろうか。我が国はバブルを絶頂期としたあと、経済的にジリ貧の状態が今日まで続いているのはご存知のとおりである。90年代以降幾度となく政治改革の必要性が叫ばれ、政権交代も何度か起こった。政府も国民も一応は国が社会・経済的な病に侵された状態にあり、できるだけ早くその病を直さなければならない必要性は理解していたと言える。しかし現実はどうだろうか? 

こまごまとした改善は進んだ部分もあっただろう。良きにつけ悪しきにつけ、小泉政権下の構造改革や民営化などそれなりに大きな変化もあった。規制緩和も進んだ。しかし最も深くメスを入れなければならない部分、つまり終身雇用だとか、高齢者の特権的な待遇だとかには満足な処置が施されているようには見えない。

本来ならもっと早くに対策をとっておくべきだったのだろう。しかし我が国は曲がりなりにも議会制民主国家であり、有権者が嫌がる政策を取るのは難しい。特に人口が多く投票意欲も高い高齢層に不利な政策は実行しにくいのが現状である(シルバー民主主義)。

そうこうしているうちに高齢者の数はどんどん増え、ますます改革が行いにくくなり、今や日本は世界最高の高齢者国家となってしまった。これは社会保障費がかさむということよりも、新しいことに不慣れな人間を大量に国内に抱え込むことで、必要な改革を行いにくくなる弊害のほうが大きいだろう。政治家や官僚、社会的に影響力のある有名人も高齢者ばかりとなり、ますます病巣へメスをいれることが難しくなるという負のスパイラルに陥ってしまっている。

現在の我が国はまさに旧ソ連崩壊のときの状況に酷似していると言っていい。かつて我が国は世界で最も成功した社会主義国家、などと揶揄されていたが、いやまテンプレ通りの失敗した社会主義国家に成り下がっているのが偽らざる現状だろう。こんな惨状は一刻も早く改める必要がある。そして、それができる可能性がある現職の政治家は河野太郎ただ一人である、と私は勝手に思っていた。

残念ながら、今回の総裁選挙では河野氏は総理総裁になることはできなかった。だが別のエントリーで岸田新総理の元でおこなわれる衆院選で微妙な結果になってしまったら求心力が低下し、来年参院選のことを考えて早期の岸田おろしが始まるのではないか、みたいなことを書いた。もしそうなった場合、河野支持者である私にとっては願ったり叶ったりだが、かりに河野総理が誕生し様々な改革が進んだとしても、少なくとも短期的に見て日本にとって幸せとは言い難い状況になるのではないか、と考えている。どういうことなのかをこれから主観と希望的観測を交えて語っていこう。

すでに述べたとおり、ゴルバチョフがやろうとしたことはあくまでもソビエト連邦の再生であって破壊ではない。彼は徹頭徹尾「共産主義者」を自認していたし、その思いに偽りはなかったはずである。共産国家である愛する祖国たるソビエト連邦をなんとしてでも救い立て直し、往年の国力を取り戻そうと尽力していたはずである。しかし最終的には連邦解体という「悲劇」といって差し支えない結果になってしまった。これもすでに述べたことであるが、ソ連は老朽化が激しく、人体でいう薬や手術などの治療法に耐えられるだけの体力が残されていなかった。もっと早くに何らかの処置を施しておけば、多少の傷み程度で済んだかもしれないのに改革を拒み続けた結果、国家崩壊、ハイパーインフレ、資本主義陣営盟主のアメリカと張り合っていた東側の筆頭国家という立場まで喪失するという高い代償を支払うことになってしまったのである。

ゴルバチョフは決定的な間違いを犯したのだろうか? いや、そうではない。ゴルバチョフは少々急いだ部分はあったかもしれないが、国家を治療延命させる上では正しい行いをしたと思っている。だがその時期と薬の投与量をちょっとばかり見誤っていた。本来ならもっと症状を見ながらゆっくりと増減を繰り返しながら薬の投与や手術(改革)を行っていくべきだった。だが様々な理由によりそれができなかった。なので一時は資本主義のアメリカと世界を二分した覇権国家ソビエトはあっけなく滅びてしまったのである(無論それだけではなく、共産体党一党独裁という政治制度自体に無理があり、それが噴出しただけとも考えられるが……)。

なぜ外国の事例を長々と持ち出したのか? それは今後河野政権が成立した場合、これと同じことをやらかす可能性が否定できないからだ。河野氏は永田町の異端児で、うろ覚えだが「破壊者」だとか「破壊(改革?)原理主義者」だとかそんなあだ名で呼ばれていたように記憶している。ちょっとでも政治に関心のある人なら、彼の仕事ぶりを見ていれば、それが嘘でないことはよく分かると思う。良く言えばスピード感のある、悪く言えば急ぎすぎなのが河野さんの政治スタンスだ。だが河野さんのやろうとしていることに、制度疲労が著しく国家社会が老朽化しているこの日本という国が本当に耐えることができるのだろうか? もし内的なものだけなら耐えることができたとしても、それに外的な要素、つまり戦争だとか大規模災害だとかオイルショックのような資源高が加わった場合はどうだろう? あるいは河野改革によって、それらが誘発される可能性もある。そうなればまさしく内憂外患の状況が出現することになる。

ゴルバチョフだって国を滅亡に追いやろうとしたわけではなく、内外の情勢によって結果的にソビエト連邦を解体させるに至ってしまった。それと同じようなことが我が国でも起らないとは限らない。良かれとおもってやった改革が、改革を行った当の本人の意図を超えた分野にまで波及し、それが巡り巡って戦後築きあげてきた社会体制の屋台骨にまで亀裂を入れる羽目になり、国家社会の崩壊を招く、なんてことになりはしないだろうか。

大日本帝国は憲法上神聖不可侵の天皇が統治してくださる神の国だったが、様々な原因はあれどもアメリカにまで戦争をふっかけ滅びの道を歩むことになった。戦後平和国家・経済大国を目指してここまでやってきたが、今やその経済大国という標語が呪縛となって「国民皆労制(国民皆労働者制)」だとか「徴労制」だとか揶揄されるような国民搾取国家(労働力搾取国家)となっているという指摘が一部からなされている。現在は時代の境い目で、今まさに今後数十年の社会体制が決まろうという重要な時期に差し掛かっている。ほとんどの人は気づいていないだろうが、現在は80年に一度の時代の転換期にある。

河野さんにはその転換期に采配を行えるだけの実力が備わっている。有能だが、有能であるがゆえに危惧しなくてはならないところがある、といったところだろうか。ゴルバチョフのやったことを思い出してほしい。彼がやったのはペレストロイカ(立て直し)政策である。老いたソ連をもう一度立て直そうと国家のいろいろな部分をいじくり回したわけである。しかし制度疲労の激しいソ連はその改革に耐えることができなかった。

何度も言うがはっきり言って、現在の日本は当時のソ連とうり二つである。右を見ても左を見ても保守的で硬直化した社会制度を変えたがらない連中ばかりである。もしこんな中で無理やり大々的な改革をしようものなら、旧ソ連と同じ滅びの道を歩むことになりかねない。だからといって何もしないのも滅びへと続く道をゆっくり歩いていくに過ぎない。改革は必要だが、それを行おうとすると急激な痛みが全身を支配する。これが現在我が国を覆っている状態である。

さしあたって痛みは我慢する他ない。滅ぶよりはマシだからである。しかし先程も言ったとおり我が国は曲がりなりにも議会制民主国家であり、有権者の多数が支持しない政策は取れない。正攻法でいくなら時間をかけて既得権益を多く所有している高齢層などを説得するべきだが、私個人的な主観だともうそれほど悠長にかまえてられる時間はない。せいぜい2020年代のうちにどうにかこうにか対策を施しておかないと、取り返しのつかない自体になりかねない。

日本はまさに崖っぷちにある。もし近いうちに河野政権が成立して、ゴルバチョフがやったような改革を行いはじめたとしても、多かれ少なかれ強い痛みが生じるのは避けられない。それに国民、もっというならまとまった票を持っている高齢者を始めとする利権屋が良しとするだろうか? 選挙があったら確実に改革派を落としにかかろうとするだろう。万が一改革が不発に終わってしまった場合、日本は近代以降初めて先進国の地位から零落し中進国、悪けりゃ発展途上国へと落ちていくことにもなりかねないのである。もしそうなれば生活水準なども大幅に低くならざるを得ないが、近代文明に頼り切った我々がそれに耐えきれるだろうか?

今我々は従来どおりの地位にいられるか、それとも盛大に滑り落ちて人類社会の最底辺になるか、伸るか反るかの瀬戸際にあると言わざるを得ない。どちらがいいのかは言うまでもない。

地球が歴史が、そして全知全能なる神が我が国日本をどのように審判するのか。今後の日本国民の行動次第で、自分や子々孫々の生活水準や国際的地位がかわってくる。我々は日本の国開闢以来の重要な分岐点に差し掛かっている。悪しき現状や未来を変えたいと思うなら、少しでも我々や我々の子孫に恩恵を与えてくれる可能性のある人間を支持するべきではないのか? それが今を生きる我々に与えられた唯一無二の役割なのではないのか? そう思えてならない。

だが河野氏なら、もしかしたらなんとかしてくれるかもしれない。時代の潮流は決して一人で逆らうことはできない。王侯将相といえども迫りくる歴史の奔流を変えたり消したりすることはできない。だが一人の人間では決して逆らえない要素があるとはいえ、多少マシにすることはできる。押し寄せる濁流そのものを止めることはできなくても、濁流の弱いところに船を動かし、乗組員のひっかぶる泥水の量を多少なりとも少なくすることはできるかもしれない。国家の指導者の仕事というのはそういうものなのではないのか。

そしてその役割を担えるのは、現代日本の政治家の中では河野太郎ただ一人であると思うのがだどうだろうか。しかしゴルバチョフほどの卓越した政治家だって、地球レベルの大きな潮流には逆らえず、結局はソ連崩壊を止めることはできなかった。同じように、河野太郎のような有能な政治家だったとしても、激流を我が物のように操るのは難しい。現在の日本を完全に軟着率させるのは容易いことではない。悲観的な考え方かもしれないが、歴史には個人ではどうすることもできない大きな流れがある。先導役である河野氏には少しでも乗組員(国民)がかぶる水を少なくしてくれるよう卓越した船さばきを見せていただきたいものである。





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