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『飯炊き女と金づる男』 #1 モーニングルーティン

飯炊き女の起床時間は、江戸時代からそんなに変わっていないと思われる。自分のことを飯炊き女と呼ぶ千魚(ちか)もまた、その伝統を受け継いでいる。起床時間は、明け方の5時前後。5時半が過ぎているとやばいと焦り、6時が過ぎていると瞬間の絶望を感じる。

目が覚めると、薄緑色の遮光カーテン越しに影絵のような光が差し込んでいた。少し前までは紺色の闇だった。早春と呼ぶにはまだ早いが、冬は終わりかけている。ただ、北海道出身の千魚にとって東京の晩冬はまだ寒く、無防備な頬に触れる空気は冷たく感じられた。

引っ張り上げた布団を頭から被り、はぁと息を吐く。溜め息でも気合いを入れるでもなく、諦念の一息だった。飯炊き女は飯を炊かねばと言い聞かせて上体を起こす。

隣には夫の益次郎が眠っている。少し眺めていると、たるみ始めた頬に触れてみたい衝動にかられた。益次郎は薬で眠っている。この時間に起きると、きっとやり直しになる。そう考えて我慢することにした。彼の寝顔を見ることができる人間は世の中に自分一人だけなのだと思うと、愛おしさは感じないが、安心はする。千魚は、益次郎を乗り越え、転がるようにベッドから抜け出した。

リビングのカーテンを思いっきりよく開け放つと、それまでの暗がりに光の筋が差し込まれ、うっすら積もった白い埃が赤茶色のフローリングに映し出された。しかし、千魚は気にする素振りを見せず、パジャマのままキッチンに向かう。

米櫃から土鍋に米を2合入れ、水に漬ける。少し値は高いが、無洗米を使っている。土鍋で炊くご飯っておいしいよねーという人がいるけれど、千魚にはわからない。おいしいご飯を家族に提供するのが目的ではない。効率が良いので使っている。炊飯器は生まれてから使ったことがない。

米に水を吸わせている間、埃の対処を考える。昨日は確かに掃除機をかけなかった。やはり掃除が必要か。いや、綿埃になるほどの量ではない。みんなが歩けばそれぞれの靴下にくっつくだろう。その靴下を洗濯すれば済む。そう結論に至った千魚は、洗顔と化粧をするべく洗面所に向かった。今日は、1ヶ月ぶりに外出する日だ。

土鍋を火にかけ、冷凍庫から出来合いの肉団子を取り出してレンジで解凍する。その間にほうれん草入りのスクランブルエッグを作る。ヤマメとイワナ、2人の娘の弁当を作り、その後に3人分の朝ごはんを作る。

弁当は、作り置きかチルド食品が主食。手早く作れる副菜を1品か2品。手作り感を演出する。彩りと、弁当箱の収まりを調整するためのミニトマトは欠かせない。

朝ごはんは、パンと余った野菜で作るスープ。トマト味にしたり、塩味にしたり飽きないようにはしている。試行錯誤して行き着いた朝のテンプレート。

弁当の準備をしていると、高校生のヤマメが起きてくる。狭い家だ。キッチンの隣の8畳を共用の子供部屋として使っている。ヤマメは繊細だ。包丁の音、フライパンから立ちのぼる匂い、千魚の気配で目を覚ます。

小さな声でおはようと言いながら、千魚の後ろをすり抜けて洗面所に向かう。化粧をしないのに、洗面所にいる時間は千魚よりも長い。髪の毛を心行くまでとかし、鏡を見つめる。制服に着替え終わると、炊きあがった白米を弁当箱に詰め始める。

千魚はハムとトマトとチーズのホットサンドに取り掛かっていた。推しのアイドルがテレビで紹介しているのを見てから、イワナはホットサンドをねだるようになった。

飯炊き女が作るのは、ご飯とみそ汁だけではない。パスタも作るし、タコスも作る。
「ホットサンド、できたよー」
まだ眠っているイワナに向かって声を張って餌をまく。ベッドのわきでやさしく起こすなんてしたことがない。イワナはごはんで釣れる。

引き戸が開かれ、おっはよーと声が響く。目覚めが良い。体の中の砂時計は満杯で、夜に向かって勢いよく砂が落ちていく。イワナはキッチン台と同じ目線まで屈みこみ、ホットサンドをまじまじと見つめた。
「…おいしそう」
千魚が顔を洗うように言うと「はーい」と反抗期の中学1年生らしからぬ返事をして、洗面所に向かった。千魚とイワナの合間を縫うようにして、ヤマメがコーヒーと紅茶をテーブルに運んでいる。益次郎はまだ眠っている。

冷え性のヤマメがスープを口に入れる。好きなものは必ず先に食べるイワナがホットサンドにかぶりつく。千魚はしみじみとコーヒーをすする。朝食の一口を味わうと、3人はてんでんばらばらに、その日の学校の時間割や仕事の予定を話したり、家でやることを確認したりする。独り言のようにも聞こえるが、会話は成り立っていた。

「今日こそは歯医者さんに予約入れないとなあ」
「まだしてなかったの。歯科衛生士さんが一人辞めちゃって、なかなか予約取れないよ」
「7時間授業だし、部活もあるし、忙しいんだよね。忘れちゃいそう。チカさん、予約してもらえないかな」
「飯炊き女だから、歯医者の予約はしない」
ヤマメは「ですよねー」と言って、スマホに歯医者の電話番号が登録してあるかを確認する。
「お部屋の掃除当番はイワナかあ。ほんっと、めんどくさい。やりたくないなあ。たまにはチカさんが掃除当番ってどう?」
「飯炊き女だから、掃除はしない」
イワナは「言ってみただけだよ」と下を向き、再びホットサンドに向き合う。

千魚は家事が好きではない。特に人のためにする家事は嫌いだということに、結婚してから気が付いた。

<続く>


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