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『飯炊き女と金づる男』 #3 1か月ぶりの外出

千魚(ちか)はマンションのエントランスから外に出ると、太陽には一瞥もくれず、背を向けて歩き始めた。1ヶ月ぶりの外出。各駅停車で4駅先の歯医者さんに向かう。

多摩川から延びたゆるい坂道を上ると、少し歩いただけで息が切れた。長女のヤマメが生まれてから次女のイワナが小学校に入学するまでの10年間、保育園の送り迎えのために、ベビーカーを押しながら毎日上り下りしていた。息が切れたことはない。

年齢のせいにはしたくなかった。1か月ぶりの外出だ、無理はないと自分に言い聞かせた。坂道を上りきり、環状道路を渡る青信号が点滅し始めたのを確認すると、千魚は素直に歩みを止めて息を整えた。

毎日狭いキッチンを反復横跳びのように動いてはいる。しかし、ウィルスが広がりを見せてからの1年間は、ただそれだけになっていた。

飯炊き女の運動といえば、買い物である。それも大抵はネットで済ませるようになった。足りないものは、散歩を日課にしている夫の益次郎に"ついでに"買ってきてもらっていた。

東京の私鉄は、駅と駅の間隔が短い。少しスマホに意識を向けているだけで乗り過ごしてしまう。千魚は水泳以外のスポーツは全般音痴だけれど、歩くのは好きだった。

信号が赤から青に変わり、環状道路を渡る。通りすがりにコンビニを覗き込み、時計を見る。9時半を過ぎていた。歯医者さんの予約は10時から。急ぎ足で歩けば間に合わなくはない。

駅に着くと、千魚は少し考えて、改札機にICカードを押し付けた。やはり今日は遅れたくなかった。むしろ早く着きたかった。家族以外の他人と会って話すことに渇望していた。

通勤と通学の時間帯を過ぎているせいか、駅も電車も空いていた。車内の座席は1人分を開けて、等間隔に人が座っていた。その間隔が、まだウィルスが収まっていないことを思い出させた。

千魚は今日の外出が必要でも急ぎでも無いものに思われ、縮こませた体をドアに押し付けるように立っていた。外出自粛の宣言はまだ解除されていなかった。

千魚はポケットから一枚のハガキを取り出して見直した。改装リニューアルのお知らせ。イラストと、改装、リニューアル、OPENといった文字がカラフルな色使いで描かれていた。

その隙間に小さく「お待ちしています」と手書きの一言と文末に歪んだハートマークが添えられてあった。

その絵心が見られないハートマークに、千魚は見覚えがあった。何度見ても口角が緩み、安心できた。

千魚が妊娠中、ホルモンの変化によるものなのか、歯周病が悪化した。痛みが口いっぱいに広がり、食べることも喋ることもできなくなった。

痛みを感じ始めたのが土曜日で、我慢できなくなったのが日曜日。益次郎が週末もやっている歯医者を探し出してくれ、重くなった腹を抱えて駆け込んだ。

つわりが終わった途端にやってきた激痛は、千魚の精神を削った。その苦しみから解放してくれた歯医者さんが神様のように思え、以来17年間通い続けていた。

歯周病は完治することはない。ただ進行を止めることはできる。そのためには日々の歯磨きと定期的に受ける専門のメンテナンスが必要になる。

メンテナンスは、歯石や着色を機械で取り除くことから始まる。その後に、歯科衛生士さんの卓越した技術と優しさによる歯磨き。歯間ブラシとデンタルフロスで隅々まで汚れを落とし、最後にフッ素を塗布する。

千魚は、初めてメンテナンスを受けたとき、あまりの心地良さに眠ってしまった。

治療というよりリラクゼーション。保険は効かない。3ヶ月に1回6000円。エステサロンやネイルサロンには行ったことがない。ただ、いつかの誕生日、自分へのご褒美に60分のマッサージを受けたことはあった。60分で5000円。

歯周病の予防と絶大なるリラクゼーション効果。断然お得で、許容範囲の贅沢だと考えていた。

降車駅は乗換駅ということもあり、人が多かった。歩いていると横から人が合流してきて大きな流れとなった。千魚は流れを泳ぎ切り、改札を出た。駅前の大通りを少し歩き、小道に入る。

大通りにはコンビニもカフェも軒を並べているけれど、それ以上に歯医者さんが散見された。一本入ったところに立地していた千魚が通う歯医者さんは、不利を補うかのように大きな歯ブラシをモチーフにした大仰な看板を掲げていたが、その看板が無くなっていた。

一瞬、道を間違えたかと思った。建て替えたかのように外観が変わっていて、隠れ家レストランのようなシンプルさが逆に目を引いた。

大きな窓越しに受付を見ると、お目当ての人がちょうど座っていた。千魚がドアを開けると、10歳年下の友達、金魚(かなめ)が顔を上げた。

「あー!千魚さん!お久しぶりです。お待ちしてましたー」
きれいにカールされた長いまつげが額縁となって真ん丸な目を引き立てていた。千魚を見つけると、ただでさえ大きな目が一回り大きくなった。

喜びで満ち溢れているのが分かった。明るい茶色の瞳と髪のせいもあり、三十代半ばを過ぎているはずだが、少しギャルっぽく見える。

北海道で生まれ育ち、大阪の大学を卒業した千魚の、東京で初めて出会った友達だった。

「金魚ちゃん、ハガキありがとね。たぶんハガキくれてなかったら、来てなかったよ。あ、これ、良かったら皆さんで」
「えー、千魚さん、ここ歯医者ですよー」
千魚はリニューアルのお祝いに、ネットで人気のチーズケーキを持参していた。

「えっ、やっぱり甘いものとかダメだった?」
「ふふ、冗談ですよー。歯科衛生士だって、ケーキは大好きです。休憩の時に皆でいただきます。お掛けになってお待ちください」
金魚はペロッと舌を出して受け取ると、奥の部屋に下がった。

薄い木目の床と真っ白な壁。受付の奥には大きなディスプレイに美しい自然が映し出されている。窓が大きく室内が明るい。ここは美容院だよと言ったら、100人が100人信じるに違いなかった。

金魚のアイディアが詰まっていることは明白だった。千魚は、金魚を羨ましいと感じた。会うたびに感じる思いだけれど、今日は一層強く感じた。

千魚は翻訳家になりたかった。そのために北海道から海を渡って外国語大学のある大阪に住み着いた。翻訳家になるのに資格はいらない。ただ、翻訳の技能を測る試験や能力を認定する試験はある。

大学を卒業してから益次郎と結婚した後までも、千魚は、会社勤めと並行して試験を受け続けた。結局、目標の点数には達したことはなく、能力は認定されなかった。

イワナが生まれたときくらいには、翻訳家になることをあきらめた。

自分が学んだことの延長線上にある仕事。そして、その仕事をしながら能力や技術をさらに高めていく。学びがずっと続く。憧れて捨てた環境。

その一点において、歯科衛生士という仕事を選んだ金魚を羨ましいと思っていた。

ただ、その羨望が嫉妬や妬みという暗黒面に変わることはなかった。金魚は、誰にでも平等な笑顔を向けることができる。

金魚本人は気がついていないけれど、千魚に向ける笑顔はほんの少し違う。目尻の垂れ具合や瞳の明るさがほんの少し。

その、ほんの少し違う笑顔に千魚は救われてきた。

「お待たせしました!こちらにどうぞー」

金魚が先導して診察室に案内してくれた。診察室の前で振り向いた金魚が笑顔を見せた。今日ここに来たことは間違いではなかった、そう千魚は確信した。

<続く>


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