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『落日』 (2000字のドラマ応募作品)



「俺、お前の分まで頑張るから」
 日が落ち始める夕暮れの空の下、僕と真島は二人で花壇の縁に座って、無人になったグラウンドを眺める。僕の夢の続きを遮断するかのように、夏の風がビューッと音を立てて吹き荒れている。
「今度の大会、絶対に優勝するから」
 僕は怪我をした膝をぶらぶらと揺らしながら、高々と目標を宣言する真島の姿を見つめる。僕よりも筋肉がついた足は、きっと本番でも快走を見せてくれるのだろう。
「うん。頑張ってね」
 一ヶ月前。僕は膝を大怪我して走ることができなくなった。三年生になって、これからの陸上人生をどう歩むか考えていた矢先だった。
「日常生活に支障はありませんが、競技をするのは厳しいですね」
 医者が淡々と放った言葉は、紙をビリビリに破いたように僕の価値を跡形もなく消した。陸上競技一筋で人生を歩んでいた僕にとって、この怪我は絶望としか言いようがない。それまで見えていたはずの一寸先の道が、一気に真っ暗になってしまった気分だった。
 一方で、真島はいくつもの有名大学から目をつけられるほどの実力をつけていて、闇の中にいる僕とは反対側の世界にいる。僕もほんの少し前まで彼の近くで走っていたのに。彼と同じく期待されながら、箱根駅伝を走る夢を追っていたのに。
「俺はもう少し走っていくけど、木山はどうする?」
 走ることができないと医者に言われたこの足は、早く帰りたいと疼いている。僕はその気持ちに応える。
「僕は帰るよ」
「分かった。気をつけてな」
「うん。ありがとう」
 真島と別れて、僕は電灯がつき始める帰路をゆっくりと歩く。僕の怪我した足が前へ進むたびに、どんどん彼から離れていく。歩き続ける僕と、走り続ける真島。その差は残酷に開いていく。僕はそのことが悔しくて、ただ一人で俯いて泣くことしかできなかった。
「おい、木山。木山だよな?」
 トントン、と背中を叩かれて、僕は我に返る。声の聞こえた方を振り返ると、同じ陸上部だった田中が心配そうに見ていた。
「大丈夫か?」
 僕は友人に泣いている姿を見られたことが恥ずかしくて、つい目元をゴシゴシと拭いて、「ああ」と強がった。
「あれ、田中も帰り?」
「まあな。これから塾があるからさ。俺、今から勉強して国立行こうとしているんだよね」
「へえ、そうなんだ。すごいね」
「まあ、受かる可能性は僅かだけどね」
 微かに白い歯を見せた田中はふと、遠くで沈んでいく太陽を見て、「夕日か」としんみりした声で言った。
「実は、俺も真島みたいになりたかったって思うときがあるんだ。長距離なのにあれだけ速いタイムが出せて、周りからも次期スターだって持てはやされて。だけど、どうしても辿り着けない高い壁があって、それが見えたときは、すげえ失望したんだ。なんだよ、俺も一生懸命夢追って頑張ったのにって。結局は運とか才能が必要で、俺にはそれが微塵もなかったからね。上に行くことはできなかったよ」
 そこまで話して、田中は地面に転がっていた石ころを蹴飛ばして、「悔しいよ」と青みが薄れていく天に向かって吐いた。しかし、その視線が再び僕の方を向き、彼は笑った。
「だけどさ、そこで人生が終わるわけじゃないんだってお母さんに慰められたんだ。その頑張りはいつか絶対に報われるって。だからどんな道でも、クヨクヨしていないでとりあえず進めって言われたんだ。その言葉は俺の心にグサリと突き刺さった。ここで立ち止まっていたら、何も始まらないってことに気付かされた。ただ、今はまだ将来の夢が決まっていないから、とにかく勉強して自分の可能性を広げようって考えたんだ」
 今の田中の顔は、おやすみを告げるお日さまとは裏腹に明るく輝いていた。彼は僕の手札にはなかった新しい選択肢を教えてくれた。
「ごめんな、俺が偉そうにこんな話しちゃって」
 田中は謝って、少し目を細めて微笑む。
 僕が進んでいる道は、真島とはかけ離れた、陸上とは関係ない道かもしれない。今までの自分が望んでいなかった道かもしれない。それでも、人生というゴールのない長い道は続いていく。その道を目の前にして、影ではなく日向が当たる方を歩くことはできるかもしれない。
「田中、ありがとう。田中の言葉のおかげで、なんか元気が出たよ」
「それは良かった。最近のお前を見ていたら、俺まで悲しくなっちゃってさ。いつか励ましてあげないとって思っていたんだ。でも、なかなか切り出せなくて」
 どうやら、僕の知らないところで心配をかけさせてしまったみたいだ。僕は口元を緩ませて、「マジで、ありがとう」と田中に素直な気持ちを伝えた。
「お互い、これからも頑張ろうね」
「よし。じゃあ、今日は俺がジュースでも奢ってやるよ。木山が前を向いた記念ってことで」
「あ、ありがとう」
 まだ誰も知らない未来のことなんて分かるはずがない。だけど今の僕は、少しだけ希望を持つことができた。
 太陽は沈み、あたりは暗がりに満ちていく。でも、明けない夜はない。それはきっと、僕の人生にも言えることだろう。


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