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しるし(短編小説『ミスチルが聴こえる』)




 初めて食べた君の手料理。ポテトサラダ。イモ感強めで、きゅうりとハムが入っている。
 初めて君と出掛けた場所。水族館。君は様々な魚の中で、クラゲをじっと見ていた。クラゲを見ていると不確定な未来でも大丈夫だって思えるの。僕には理解できなかったが、君はそんなことを言っていた。
 初めて君と喧嘩した日。些細なこと。僕が苛立っていたからつい言い返してしまった。全部僕が悪かった。だから翌日きちんと謝った。誠心誠意。すると君はにこりと笑って、僕を抱きしめてくれた。
 初めて君とキスをした日。クリスマスの夜。僕らはディナーを食べた後、僕の家で裸になって抱き合った。そのとき、君は恥ずかしそうにしながら、しっとりした唇をそっと僕のものに近づけた。五秒間、息が苦しくなった。


 すべて、記憶している。僕と君の思い出。それは『しるし』となって、僕の過去となる。振り返れば、まるで轍みたいにはっきりした跡がある。


 最後に君と話した日。なんでもない日。僕と君は大学の前で話していた。今度上映されるアクション映画について。君は熱心に話していた。僕はうなずくばかりだが、君が一生懸命話している姿が好きだった。
 君がいなくなった日。なんでもない日。しかし、その日は嘘みたいに晴れていた。僕は缶コーヒーを買って、一人ベンチで君を待っていた。しかし、君はいつになっても来なかった。
 君が亡くなった日。なんでもない日。僕は状況が理解できなかった。しかし君は、抱えきれない傷を負っていることを文章として遺していた。僕はそこで、君が以前別の男性から酷いことをされた話を聞き、僕が救いになっていたが、それよりも過去の悪い『しるし』の方が色濃く残っていたことを知った。
 僕が初めて君を想って泣いた日。僕がやるせない気持ちを抱いた日。全部覚えている。悪い記憶の方が、鮮明に覚えている。
 

 僕は、良いも悪いもすべて記憶してしまう。消したいけど、消したくない。淡い過去。


 君が亡くなって一年。僕は君の墓の前で手を合わせた。『しるし』はだんだんと色褪せていき、僕の轍は未来によって上書きされていった。ただ、君が作ってくれたポテトサラダの味や、クラゲをじっと見ている姿や、笑顔や、怒った顔や、僕に委ねてくれた顔は、覚えている。僕はどうしても、君という『しるし』を消せない。
 いや、消したくない。
「僕があの世に行ったら、また君と思い出を作りたいな」
 君のために手向けた花に、一匹の蝶が止まった。それがなんとなく君に見えて、僕はうれしくなった。

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