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無意識に決められた『在り方』 (短編小説)



 男なら、強くあれ。女なら、おしとやかに。
 男なら、泣くな。女なら、弱くあれ。
 男なら、働け。女なら、家を守れ。
 男なら、男らしく生きろ。女なら、女らしく生きろ。


 彼はそんな教えを注がれた、平成に生まれた人間の一人。だから少年時代は、強く、泣かないように、一生懸命動いて、男らしく生きた。おかげでたくましく、立派な人間に成長した。
 そう思っていたのは、多分僕を含めて彼の周りにいたほとんど全ての人間だろう。
 だけど、ある日突然彼は彼女になった。私は女だから、少しくらいはおしとやかに、弱い部分も見せて、大人になったら家で子供を守って、女らしく生きていたいんだ、と。なぜ姿だけで男だと判断されてしまうのか。心まで覗いてくれる人は今までいなかった。だから私は男の匂いを醸し出すほど男らしく生きることしかできなかった、と。
 僕は見た目だけで、彼女を彼と思い込んでしまった。彼女の髪が硬くて短いから、腕の毛が草原みたいに生えていたから、立ってトイレをしている姿を見たから。
 だけど、それらは全て彼女が無理をして彼を演じていただけだった。世間体が怖いから。度の越えた差別を恐れていたから。彼女は必死で嫌われることを避けていた。
 僕は謝った。ごめんなさい。僕は無意識にあなたを男と思い込んでいた。人は見た目じゃない、なんて道徳の授業で習ったはずなのに、自分の都合のいいように解釈してしまった。
 彼女は理解してくれたなら大丈夫、と前向きな返答をしてくれた。そして、ありがとう、と僕に礼を言ってくれた。


 大人になった僕は、久しぶりに彼女に会って、彼女にパートナーができていることを知った。その人は男性だった。
 だが話を聞くと、彼女のパートナーはどうやら仕事をしていないらしい。僕は心底驚いた。
 男なのに、仕事してないの? それってどうなの?
 彼女は笑った。男だって、主夫として家を守ることができるんだよ。そして彼女は、パートナーは涙脆くて、メンタルも弱いと言った。だから全然男らしくないでしょう。だけど、彼は自分を男だって思っているのよ、と。
 僕は少年時代の記憶を呼び起こした。男なら、強くて、泣いちゃダメで、働くことが当たり前で、男らしく生きていなきゃいけないはず。しかし、彼女のパートナーは僕が知っている男の概念を根っこからぶっ壊してくれた。
 また、刻まれた思い込みが音を立てて変わっていく。僕は、恥ずかしくなった。
 ごめん。僕はまた酷い思い込みをしていたみたいだ。大人になって立派な社会人になれたと思い込んでいたけれど、中身は古くて便利な考えを酷使しているだけだった、と。
 彼女は、前にもそんなことを言われたよ、と腹を抱えて笑った。でも、変化を受け入れることができるなら、過去に築いた思い込みを壊す柔軟さがあるなら、これから先思い込みと現実が違っていても、きっと修正することができるよ。彼女はそう言って、僕の手を握ってくれた。とても温かく、やわらかい手だった。僕は熱い涙を流して、そうだねと言った。


 僕らは政府を中心とした世間体という巨大な構造の中で、当たり前を教え込まれ、普通の人間にさせるための教育を受ける。それは受動的に、ある意味で強制的に思考を注がれていく。いつしか僕らの頭には、「違い」を嫌い、本能的に「区別」してしまう考えがこびりつく。それが思い込みになって、自然と「差別」が生まれていく。
 僕が知らないところで、また誰かが思い込みによって傷つけられる。そのとき、僕は肩を叩いて、「その思い込み、もう古いよ」と言ってあげるポジションにいたい。僕自身が変わったように、誰だって少しずつ変化していけるはずだから。


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