サヨナラ、日曜日(短編小説)



 僕は日曜日の午前中になると、決まって近所にあるカフェ、『ブルーノ』へ行くことにしている。シックで落ち着いた内装と、渋い顔したマスターが淹れてくれるコーヒーが美味しくて、パソコンで作業をするには最適な場所だった。
 今日もいつもと同じ窓際の席で、温かくほろ苦いコーヒーを飲みながら、僕はリラックスできるジャズをBGMにして優雅な時間を過ごしている。長閑な時間を、丁寧になぞるようにして過ごす。極楽な時間だ。
 ただ、僕には一つ大きな悩みがあった。それはこのカフェに来ている、さらっとした長い黒髪の、いかにも清楚な雰囲気を醸し出している『あの女性』が、いつも視線に入ってくることだった。


 コーヒーは味が苦手だけど、このおしゃれな空間が好きなんです。そんなことをマスターに言ったら、
「当店はカフェオレも美味しいですよ」
 とアドバイスをしてくれた。初めて入ったときに言われたその言葉が妙に嬉しくて、それ以来毎週日曜日の午前中になると、決まってここに訪れるようにしている。仕事で疲れた心体を清めるには十分な場所で、私の憩いの場になっている。
「お待たせいたしました。カフェオレです」
「ありがとうございます」
 私はミルクの香りがするカフェオレをゆっくりと飲みながら、いつもの方向を誰にも気づかれないように横目で見てしまう。今日もまた、あの人が来てくれている。
 私にはここへ来るもう一つの楽しみがあった。それは、いつもパソコンと睨めっこしながら作業している、窓際の『あの男性』を眺めることだった。

 僕はいつもここで早めの昼食を取っている。マスターの息子が作っているハムと卵のサンドウィッチがたまらなく美味しいからだ。
 今日も分厚くてボリュームのあるサンドウィッチにかぶりつく。卵のまろやかさとハムの塩気が口の中で広がって、僕を満足させる。合間に挽きたての豆を使っているコーヒーを飲んで、再びカウンター席に座っている彼女をチラチラと見たりする。気づかれないように、それでもはっきりと僕の心を惹きつけてくる彼女に、やはり僕は恋をしてしまっているみたいだ。
 ただ、臆病者な僕には、どうしても声をかける勇気が漲ってこなかった。僕と彼女が釣り合うとは思えないし、あんなにクールビューティーな女性を、周りの男が放っておくわけがない。きっと、マッチョでイカした男と付き合っているのだろう。
 僕とは遠い存在。僕が彼女を好きである気持ちは、このコーヒーの苦さに似ている。

 彼が食べているサンドウィッチだと、私の胃袋にはちょっと大きすぎる。だから私はオリジナルのミニサンドを頼んで、彼に少しでも近い食べ物を食べるのだ。
 日曜日なのに、彼は仕事をしているのだろうか。それに、彼の身なりからして相当真面目で優秀そうな人だろうと容易に想像できる。きっと、優しそうな女性と結婚していて、すでに幸せな家庭を築いているに違いない。
 声、かけてみようかな。幼き頃に木登りをするような度胸試しをしてみたくなる。だけど、そんなことをして余計に距離が離れてしまったらどうしようかと心が引き止められる。もし、私のせいで彼がこの店に来なくなってしまったらどうしよう。嫌な想像は瞬く間に増えて、私を戸惑いに満たしていく。
 どうやら今日もカフェオレみたいな甘い恋ができそうにはない。

 昼過ぎになると、僕は家へ帰って昼寝をする。明日からまた仕事をするために、少しでも体力を回復させておくためだ。本音を言えば、いつまでもここにいたい。あの女性と離れたくないのだ。
 そんな欲望にまみれた葛藤と戦いながらも、最終的に僕は現実的な思考に戻してお会計をする。また日曜日になったら会える。そう信じて、僕はこのお店を後にする。

 彼は今日も私より先に帰ってしまった。一人残されて、片想いのまま孤独な時間が流れていく。彼は来週も来てくれるかな。今度こそは一歩踏み出してみるべきじゃないかな。
 でも、それでお互いに傷つけ合う結果になってしまったら、私は立ち直れるかな。
 やっぱり、止めておこうかな。
 緩くなったカフェオレを飲むと、口の中で甘ったるさが残って嫌になる。それは、甘い想像の後にくる現実を取り込んだ虚しさのようだった。
 また、会えるよね。
 私はそんな期待を込めて、このお店に別れを告げる。

 また、すれ違ってしまいました。
 いつまで経っても片道切符のまま。互いが互いのことを警戒しているのか、それとも躊躇しているのか。なかなか初めの一歩を踏み込めずにいます。ハム卵サンドを頬張りながら、こちらを見るあの真面目そうな男性と、カフェオレを飲みつつ頑張ってミニサンドを食べながら、時々窓の外を眺めるふりをしてあの男性を見る美しい女性。
 彼らの赤い糸はどこかで結ばれるのでしょうか。それとも、結ばれず解かれた糸をぶら下げたまま、この恋は散ってしまうのでしょうか。
 私は今日もお客様のためにコーヒーを淹れ続けます。時々カフェオレも挟みながら。そして、いつか全てのお客様が本当に幸せになることを願っています。
 サヨナラ、日曜日。今日もまた、一つの物語が終わります。


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