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蓮、見ながら一人語り


 この間墓参りに行ったら、その近くに綺麗な蓮が咲いていました。昔は花なんて何の感動もしませんでしたが、最近は綺麗な花が咲いていると、思わず立ち止まってしまいます。良くも悪くも歳を取ったのかもしれません。

 こんばんは、蒼日向真澄です。

 最近、末路について考えることがあります。私は死ぬとき、どうなっているだろうと。もちろん、世界情勢もひっくり返っているかもしれないし(アメリカじゃなくて、ロシアや中国が仕切る世界?)、この国があるかどうか、正直わかりませんね。もはや東京が首都じゃないかもしれない。空が飛べるようになっているかもしれない。宇宙人が町中にいるかもしれない。いや、逆に何も変わらず、むしろ電気を無駄遣いしないようにと、消灯時間がめっちゃ早くなっているかもしれない。

 まあ、そんなマクロな世界は考えてもどうしようもないので、私自身が死ぬ間際、「何」を持っているのか。それについて、深く考えるわけです。 

 私が手にしたいものは、おそらく小さな「名声」です。私の欲はお金ではなく、この世界に生きた証を残すこと。それを、私は小説を書くことで実現しようと思っています。つまり、承認欲求が強いわけです。昔から、誰かに認められたいという気持ちが人並み以上にあったのかもしれません。ただ、私には何も武器がなかった。だから他人に認められることがほとんどなかった気がします。

 今は私の作品を読んでくれる人がいて、認めてくれる人がいます。家族を始め、私を認めてくれる人がいてくれるのは、ありがたい限りです。欲を言えば、もっと有名になって、もっとたくさんの人に私の作品を読んでもらいたい。それが今の夢ですね。そして私が死ぬとき、人生の末路に立ったとき、「ああ、いっぱい描いて、いっぱい読んでもらえたな」と思えたら、ハッピーエンドですね。

 話は少し変わりますが、私はこの世界において、「浮いている」気がするんですよね。先日、用があって新宿に行ったのですが、周りにいる人たちがどこか自分とは違う匂いがして。ああ、私はここに溶け込むことは無いなと改めて痛感しました。学校にいた頃もそうですが、いわゆる波長が合わないことが多々ありました。だから「浮く」わけです。コロナ禍で人々が分断、とニュースなどで報じられていたこともありましたが、私はとっくの昔に離れていたのだろうと、最近はつくづく感じます。まあ、大人なので時には寄り添うこともありますが、おそらく本当に分かり合えることはないまま、末路を迎えるのでしょう。それはそれで、個性的で良いかもしれませんね。

 そのうち世界がバグっても、私はプカプカ浮いたまま。

 それでは、また。

 

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