羊、吠える『ミスチルが聴こえる』
ねえ、あそこにいる動物、何?
僕は目を擦って、凝視して少し離れたところにいる物体を見つめる。綿みたいに白いモコモコに包まれていて、のっそりと左右に動くだけだ。
「あれは、羊ですね」
しかし僕も佐藤さんも首を傾げてしまう。どうして、こんな場所に羊がいるのだろうか。
「ここ、住宅街だよね」
「そうですね。れっきとした」
「この辺に、動物園とかふれあいパークみたいな場所あった?」
「いや、この街にそういう類のものはありませんね」
「じゃあ、なんで羊がうろうろしているのよ」
「それは、わかりません」
ただ、どう見てもあれは犬ではない。まさか四つん這いになった人間でもあるまい。あれは明確に、羊だった。
「通報する?」
「とりあえず、市の職員さんに電話してみますか」
だが僕が携帯を持って電話をかけようとしたとき、そこにいた羊が吠えた。
「え?」
その声は、明らかに羊というよりも狼の遠吠えだった。
さらに、もう一回。今度はライオンの咆哮みたく、何かを殺そうとしているような尖った声で吠えた。
「何あれ!?」
「いや、わかりませんが、こっち見ていますね」
「え、なんか近づいてきてない?」
のしのし、と羊らしき怪物がこちらに歩み寄ってくる。僕らは逃げようとする。だが、二人とも足がすくんで動けない。
「思ったよりデカいです!」
「え、怖いよ、食べられちゃうよ!」
「うわ、牙剥き出しですよ! なんですかあれ!」
「知らないわよ! もう、終わりだわ!」
「ああ、佐藤さん。僕たち死ぬかもしれないので、もう、最後に言っちゃいますね!」
「え、こんなときに何よ!」
「好きでした。ずっとずっと、好きでした!」
あ、言っちゃった。
「え?」
佐藤さんが僕を見て固まる。僕はどうしたものかと佐藤さんから目を逸らし、羊の方を見た。だが、先ほどまでいたはずの羊が跡形もなくいなくなっていた。
「あれ、佐藤さん。羊が、いないです」
「嘘でしょう?」
佐藤さんも羊がいた方向を見た。
「たしかにいないね」
「なんだったんでしょうか」
「でも、よかったわ。あんな怪物に食べられて人生終わっちゃうなんて、いくらなんでもバッドエンド 過ぎるから」
「そうですね。とりあえず、安心しました」
そして僕はあることを思い出した。
「そうだ。これから夕飯の買い物をする予定でしたね。行きましょう」
「いやいや、待ってよ」
「え?」
「え、じゃないでしょう。無理だよ、そんなごまかし方」
無理か。僕は観念して、佐藤さんの方を向いた。
「羊はいないけど、あなたの言葉はちゃんと残っている」
「ですよね」
「付き合ってほしいってことでしょう?」
好き。僕は佐藤さんが好き。死ぬ間際に告白しておきたいくらい、つまり佐藤さんへの愛を最後の一言にしてしまうくらい、好き。
「はい」
すると、佐藤さんは面白そうに笑った。
「まさか、こんなタイミングで告白されちゃうなんて」
「なんだか、すみません。食べられちゃうかもしれないから、思わず言ってしまいました」
「食べられなかったけどね」
「はい」
それから、佐藤さんは僕の隣に来て、僕の左手をそっと握ってくれた。そして、「いいよ」と了承してくれた。
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