議論のスタート地点/感想文ではない文章が書けるか
"思っている"、"感じている"、今時の主流の"共感"みたいなものを押し出すだけでは、これは論だとか意見だとは言えない。
情動は客観性や論理性を失わせる。まちの重要な議題が感情論で満たされていてはまずい。
今や議論がまともに生じない現状となっている。
そもそもの意見や論が見当たらないからだ。
議論の元になりそうな論や意見を探すのは本当に困難になっている。
これはまちの文化度や知性の問題であって、根は深い。
唯一、何か探せるとしたら、やはり、地元紙のこちらのスペース、ということになるだろう。
-転載・引用-
日刊新周南 2022年4月12日より転載
(少し前の記事です、アップが遅くなってしまったので)
正否を問題にしているのでない。
感情論ではない適切な論や意見があれば、議論がスタートできる。
そのことが重要なのだ。
繰り返すが、重要なことはこの主張の正否ではなく、議論自体がスタートされることにある。
「思っている」「感じている」という、感想文のような文章しかかけない大人が増えると、理性的、論理的、知性的な非常に真っ当と思える意見ですら、感情論や誹謗中傷、悪口などと同じ扱いを受けてしまう。
困ったものだ。
が、これが地方地域の現状なのだ。
目を背けてはならない。
日記と感想文だけを延々と書き続ける学校教育のなせる技ともいえるが、ここでは言及を避ける。
もしかしたら自分は感想文しか書けないかも、情動でしか文が書けないかも、と思う方がいたら、“学べば良い”ので、今から早速学びの道を選ぼう。
目を背けずに学ぶ。
逆に言えば、こうしたことから、目を背け逃げて来た、から、多くの場所でリーダーが劣化し、リーダーが育てる人材も劣化してきたのである。
このままでは、沈みゆくまちを救う術はない。
これについては、以前、市議会中継をみていてガックリきた覚えがある。
とある議員が”かわいそうでしょう?””かわいそうと思わないんですか?”と、情で主張を通そうとしている姿を見てしまった。
(言葉尻の問題ではなく、文脈も含めて悲惨なやりとりだったので書いている)
ちなみに、この方はそれなりにベテラン議員だったと記憶している。
おそらくなのだろうけれども、市議会議員というのは市民の代表であるはずから、最低限の、意見を述べるための作法を知っているべきなのだが、果たしてどうか。
意見や論をまともに述べることもできない人を、惰性や地縁血縁で選び続けているとしたら、市民である我々もどうなのか。
さて、長くなったが・・・
地域社会に、その地域から発信される意見や論、問いかけが存在すること自体がとても大切であることを、まずは皆さんに認識してもらいたい。
そして、自分としてはどういう文章が書けるのか、それを見つめて欲しい。もちろん、情動まみれの、感想文じゃないやつね。
書ける人が書き、話せる人が話せば、それだけ、考える種が増える。
それらをもとに議論が生まれる。
きちんと戦える論が複数揃えば、そこで提示される策はブラッシュアップされることになろう。
一発勝負でポンと出されたものが、競わせる論や案もなく、即採用、他の人はモノも言えない、なんてことが起こらなくて済む。
当然、従来からの、"偉い人が言うから"、"東京の人が言うから”と言うダサいチョイスをしなくてよくなるはずだ。
ということで、長くなりましたけれども、
意見や論がまずはあるべきでしょうというお話でした。
(写真記事の内容そのものには特に触れてないです。すみません)
-転載・引用-
日刊新周南 2022年4月12日より転載
(おわり FB投稿より)
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