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震災から10年、被災地にて考える⑦終

3月13日(土) 今日は木戸の交民家から

 昨日も遅くまで呑んで話し込んで、日記を書いていたためまたかなり眠い。少し茶の間がにぎやかになってきたので9時頃ムクムクと起きだす。オーナーの緑川さんが玄米のおにぎりとみそ汁を作ってくれており、それをいただきながら楢葉町でオススメのスポットやまた色々な話をしたりする。ゆっくりと準備をして10時にみんなで出発、今日は楢葉町のオススメしてもらった場所を回って無理せず高畠に戻ろうと思う。前日のブログ見直したらなんか抜けているとこが多かったので少し追記してからこれを書いている。

木戸の交民家さん玄関にて、楽しいご縁に感謝

楢葉町を巡る、(生活エリア、工業団地)

オススメしてもらった場所を中心に楢葉町を巡ってみた、この旅はずっと快晴だったのだけれど今日は朝から大粒の雨模様だった。車での移動だしまぁそれもまた楽しいかなんて思いながら、眠い目を擦りながら散漫になりがちな注意をなんとか留めながら車を走らせる。

 近くのJヴィレッジさんへ、人工芝のサッカーフィールドを多数、屋内練習施設等も備える。雨の中練習が始まっていた。原発事故の際は対応拠点でもあったそう。2018年より順次施設が再開し、震災から2962日目の2019年4月20日に完全再開した。

道の駅ならはでも震災10年の特集が

「なにかし隊」の皆さんの地域活動で生まれたかかし

近くには工業団地が、遠隔技術開発センターは町としても紹介の多い施設

 町民向け復興住宅、震災で家を失った方や住宅困窮者が優先となるが、抽選で町内の幅広い方を入居も受け付けている。家賃は世帯年収によって変わるが、基本的にはかなり安く借りられる。5年以上住むと値段が上がるようだ。暮らしのインフラが集中していて生活はしやすそう。
https://www.town.naraha.lg.jp/life/006702.html

近くには町立こども園もある

駅前は飲食店等が出来てきている

駅は復旧していたが周辺はまだまだ開拓中という感じ

楢葉町を巡る(海岸沿いエリア)

海岸沿いの堤防は整備が終わり防風林の植林が進む

除染土もずらりと並ぶ

遠くに火力発電所の煙が見える

設置前の膨張ブロックが不気味に立ち並ぶ

海岸沿いにはjapan solarの会社施設が

近くにはソーラーパネルが設置される

福島第二原発周辺、津波被害が大きく地域ごと流された波倉地区は廃棄物処理施設になっていた。

高い塀に囲まれて除染土がうずたかく積まれている

豆腐のような無機質な施設がずらりと立ち並ぶ

道路わきは学校からのイラストが、突然現れることもあり、素直にほっこりするというよりは、なんか色々勘ぐってしまう。

近くにある看板、なにやら意味深に思える。今回の災害における悪とは何だったのだろう。悪だと思う事があったとしてそれを責めるのもまた悪なのだろうか。

お昼は交民家でおすすめしてもらったやぶそばさん、のりせいろ750円。連日食べすぎなのであっさり済ませようと思ったが、天ぷらサービスしてもらった。

やぶそばさんのメニューより

楢葉町の帰還情報とか

 楢葉町の人口は震災前は8011人だったが、震災時は全町避難となるが、翌年2012年の8月からは一部町内への立ち入りや活動が可能に、2014年9月から避難指示が完全に解除され、町内の住居や施設整備、回帰運動が進む。令和3年 2月28日現在、町内居住世帯数 2,069世帯、町内居住者数 4,050人。現在住んでいるのは震災前の大体半数くらい、やはり早い段階から町内での活動ができたかというのもあり、かなり復興が進んでいるという印象が大きい町だった。

参考データ
https://narahamirai.com/overview/

楢葉町を巡ってみて

 楢葉町は2012年から町内での活動ができるようになり、首都圏から原発事故の最前線に向かった時、一番最初にたどり着く町だったのかもしれない。現在の最前全線は少しずつ北へ向かって行っている。楢葉町では工業団地や集合住宅、即席の産業回復、人口回復モデルを実行されているように思えた。一部エリアは集中的に暮らしを作っているが、これからはより広い範囲で生活の拠点が広がっていくのだろう。そして海岸エリアは護岸工事がキレイに完了しており、防波堤や除染土処理施設が無機質に立ち並ぶ。地域活動も推奨し盛んに行われ、ある意味では復興は順調に進んでいるといえるだろう。ただし一方で、優秀な人たちがこれまでと同じ成功モデルをなぞって作られているとも捉えられる。豊かさを与えてくれる代わりに従順である事を許容してきた歴史、急速な発展や進歩のために犠牲にしてきたものは何なのか、考えて変えていかない限りまたいつか同じような事を繰り返すのかもしれない。過ちを繰り返すのが人間なのか、顧みて変われるのが人間なのか。僕自身はは常に顧みて変わるためにはどうすればいいのかと考え続けたいと思う、それで人生をかけて進んだと思える事はほんの少しかもしれないが。どんどん進んで行ったり来たりを繰り返すのもよいかもしれないが、僕自身は確かな一歩とそこに続く道をゆっくりと創る事が大事だと思うから。

あの震災から10年、数字や時間の感覚

 3月11日から10年、それは数字でしかなく意味のない通過点かもしれないが、そこに何かしらの意味を見出したり、何かを予感したりする。繋がり続けるのは時に大変だが繋がりを求めるのもまた人の本能という事だろう。それは1周年、10年という数で共感する文化は都合がいいのかもしれない。あまり細かく予定を立てずに向かったのだけれど、宿のチョイスには地元で活動している人の意思がこもっていそうな場所に限定して回った。運よく本当に色んな立場の人と出会って話して、各々が持つ感情に触れた事で、私自身も色んな事を感じて考えさせられた。ある種無邪気に未知の世界や感情に触れる感覚はなんだか懐かしく体感する時間はとても長く感じられた。

 暗くなる前には高畠町へ帰ってきた。1週間ぶりなのだがなんだか体感的には一か月くらい原発事故周辺エリアにいたような気分だ。ほとんど解けていたが、まだ雪のある景色や少し湿ってひんやりした風に新鮮さを感じるほどだった。

最後に・・・

 普段から地方創生についてや地域づくりについて、自分自身は何を想ってどう生きようかそんな事をよく考えてるのだが、行かなければわからない気付きがたくさんあった。地元に住む人や全国各地から福島に来ていた人とご縁があった。そんな学びや繋がりがまたより自分を複雑にするのだけれど、複雑に広がった世界の中でまた新しい事が見えたりする。生涯学び続ける楽しさというのはこういうところにあるのかもなと仕事の事も考えたりする。今回被災地を巡ると題しておきながら、どちらかというと「フクシマ原発事故の地を巡る旅」だった。北と南に津波被害を受けたところはもっと広範だという事も改めて気づくことだった。原発周辺以外で津波等の被害が大きかったところは徐々に復興支援が打ち切られるそうだが、今回巡った周辺はイノベーションコースト構想を含め、原発事故があったことによりさらに復興支援が延長されるという事でここもまた考えさせられる。
 今回の旅の日記はここで終了ですが、「フクシマ原発事故の地を巡る旅」についての自分なりの総括は必要だなと思うところで、また書いてみようと思いますが1週間巡った上でこれを読んでくれた被災地の皆さんに僕なりのメッセージを送ります。

「東日本大震災から10年、傷はまだまだ癒えてはいないと思いますが、災害の記憶と共に繋いできた文化の魅力とこれから描く未来には素敵な可能性を感じました。色んな立場境遇想いの方がいるとは思いますが、それぞれの想いを胸にまずは楽しく愉快にいきましょう。まだ10年ととるかもう10年ととるかそれぞれかと思いますが、私からはひとまずは10年お疲れ様でしたと心からお伝えさせていただきます」

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