「労働の競争」と「表現の承認」

少し前にクラウドファンディングでお金を集めるのがなぜ正当化されるかについて考えていた。もしくは、NPOに対する寄付文化が根付くとしたら、どんな価値観なんだろうと。
熱烈に批判したいわけではなく、応援したい意味も込めて単純に説明したかったのだ。

それは労働によって人々の"価値"(と言っても「貧困をなくす」とかではなく、主に"快楽"だ)を作り、その中で競争するという理屈では説明できない。
だから、その理屈の中で批判を受けるのかもしれないと思った。

つまり、事業の費用を事業の利益で賄えていないなら、それは正当な評価であり、なにかたぶらかして他の方法でお金を集めるのはフェアじゃないと。
もしくは、大学生が何かやりたいなら、まずは何かしら"社会"の役に立って、それでお金を集めろと。(まぁよくバイトしろと言われるが別になんでもよくてそこは重要じゃない)

そして、そこから少し発展して、理屈というより"信じられている思い込み"のようなもので、「人に快楽を生み、同時に自分は苦痛に耐えるのが労働である」というような考え方がある。
特に親世代と話すと「我慢して労働することは美徳なんだな」とすごく感じられる。
パッと聞くと不合理だからこそ、こう思ってないとやっていけないし、こう思い込ませる日本社会はさすが"合理的"だなと感心した。
心理的には受け入れやすい。だって「自分はお金が目的で頑張って苦痛に耐えているのに、この苦痛に耐えずにお金をもらうなんてけしからん」というのは感じてしかるべきだ。
いや、流石に苦痛に耐えることを人に要求するのは不合理だろうけど。囚人のジレンマって言ったら違うか。

なんしか、「苦痛に耐え、"価値"(快楽)を生み、競争せよ」とは別のゲームが必要であると考えている人が一定数いる。
そして、別の理屈でお金をもらうゲームは他にないかと考えていた。

自分としては"表現者"なんじゃないかと考えた。つまり、"アーティスト"だ。

クラファンや寄付は"快楽"への対価ではなく"共感"の表明だ。
ここではNPOなどが「いいことをしてるから」お金がもらえるわけではない。
あくまで払う人が「いいと思ったから」お金を払うのだ。

結局"見せ方の競争"なのではないかと思ったけど、これは仕方がない。
これは福祉を目指す行政ではないし、受益者負担を打破するには他の力学でお金を集めるのは仕方のないことだ。
それに、「表現というゲーム」も労働とは違った味があっておもしろいのではないか。

みたいなことを考えていたところに、たまたま読んでた文章がぴったりきたのでとりあえず筆を取ってみた次第だ。
クラファンの話ではなく労働と表現についての話だから少しズレてるが、この「表現」が人間にとってどのようなものなのかについて。

アレントの『人間の条件』とヘーゲルの『精神現象学』を重ね合わせて考えている章なのだが、その一番最後の部分で、ヘーゲルを批判したマルクスも同じ主張をしていたと締めている。次の引用はマルクスの『資本論』の引用の直後の文章である。

ここでマルクスは完全に事態の本質をつかんでいる。
人間は、生存と欲望を満たすには労働によって自然に働きかけるほかはない。文明が発展するほど、人間の生産の能力は増大するが、欲望もまた果てしなく拡大する。資本主義の矛盾と悲惨は、この生産力と自由な欲望の拡大が"欲望の普遍闘争"を生み出し、人々を否応なく「盲目的な」「労働」の競争のうちに投げ込む点にある。だからはじめの「原理」は、これを市民的な「制御のもとに置くこと」で、生産と配分の合理性を取り戻すことにある。しかし人間的「自由」にとってそれはまだ必要条件にすぎない。
生産と配分の合理的な制御だけが、はじめて、多くの人々の「労働日の短縮」を可能にし、人々を絶対的な必要としての「労働」から解放する。こうして人が、「労働」と「競争」、つまり一元的な価値を求める「必然性の国」から解放されるとき、はじめて人間社会は、多様な価値のさまざまな「承認のゲーム」を作り出すことができる。このことこそ、人間にとっての「真の自由の王国」が開花する十分条件なのである。
(竹田青嗣『哲学は資本主義を変えられるか ーヘーゲル哲学再考』)

ここでの労働はアレントの「労働」「仕事」「活動」の「労働」を意識していて、また「自由」はアレントの「活動」とヘーゲルの「事そのもの」論である。

そもそも近代を完成・擁護したヘーゲルと、ヘーゲルや近代を批判したマルクスやアレントの根本が同じなのではないかという話で、これが結構おもしろいのだが、とりあえず内容を見ていく。

ヘーゲルは近代人の生の目標を「快楽と必然性」「心胸の法則」「徳の騎士」「事そのもの」など様々な範型で示した。
竹田青嗣はこれを「恋愛」「正義」「事そのもの」に分け直し、正義と事そのものの間に「成功」を付け加えた。
「恋愛」「正義」「成功」については自由として不完全であること、そして「事そのもの」については「表現」を考えながら人間の自由である事を主張する。しかし、それはあくまで社会がどんな価値観に支配されているかに制約される。

「恋愛」はヘーゲルの「快楽と必然性」を指している。「恋愛」に生の目標を見出そうとしても「必然性(現実)」が立ちはだかる。一生続くとは限らない、普遍性に乏しいものだからだ。

「正義」はヘーゲルの「心胸の法則」と「徳の騎士」を指している。前者は(青年期の)革命思想、後者は道徳的理想家のイメージだ。これらでは、恋愛より普遍的な事を考えるのだが、基準があくまで自己の中にある(自己理想)。しかし、社会には様々な理想があるため、自己理想に固執する生き方は他の理想を承認することができず破綻する。徳の騎士と世路(世間の言い分)の間の議論が印象的なので引用する。

「世路」はこう主張する。君はふつうの人々が「幸福」を求める欲望を悪(エゴイズム)として非難し、「徳」こそ善だと言う。しかしもともと君は、「人々の幸福」の実現こそ「善」だとしてそれを求めていたのではないか。君は、すべての人々が「幸福」となる理想に絶望し、その反動から、こんどは、理想が実現しないのは人々の「幸福」への欲望のせいだと言っている。また君は今や個人の「幸福」を否定し、「正義」と「善」の絶対性を主張するが、じつは君も人間である以上は、自分の一切を「正しさ」という理想に捧げて、自分の幸福をすべて投げ捨てるなどという事はできないはずだ。純粋な信仰の絶対性を生きることが人間に不可能であるように、ほんとうは絶対的な「善」への欲望自体、君の「自己価値」の欲望から来ている。これが「世路」の強力な言い分である。
(竹田青嗣『哲学は資本主義を変えられるか ーヘーゲル哲学再考』)

「成功」は著者が付けた足した生の目標だが、これは「サクセスゲーム」で成功するということである。サクセスゲームでは「他者が欲望するものを欲望する」という社会的欲望の形をとる。普遍性が高く、また基準が社会にあるので「恋愛」とも「正義」とも違う。だが、ここでの自己価値はゲームの中で規定される。努力も才能もこのゲームが規定するのだ。人間的価値がゲームの結果を決めるのではなく、ゲームの成功と不成功という結果が人間の価値として承認される。勝者が得る分敗者が失うというゼロサムゲームだ。そこでは厳しい非人間性が求められる。この「成功」という生の目的も自由をもたらさない。なぜ非人間的な不自由さがあるかというと、人間的自由に必要な「承認」という契機を欠いているからだ。そして結果として「ゲームの成功」という多様性のない単一の価値を人間的価値とすることになっている。まさに商品の価値を貨幣が一般的な基準として単一化するプロセスと同じだが、本来多様であるはずの人間的価値をそのように単一にして自由なはずがないのである。

「事そのもの」は表現行為である。ここには「目的」「手段」「対象」が存在する。「目的」はその人間の個性を外化すること。手段はその表現方法である。対象は表現作品である。ヘーゲルによればこれには「普遍的なものと個体性の相互浸透」がある。「恋愛」「正義」「成功」も自己価値獲得の試みだったが、表現では内的に隠れていた自己の個体性の本質が、ある方法での努力によって作品に結晶化し、現実化するということ自体が一つのエロス(喜び)なのである。そして、一旦作品になると、個体から離脱し他者からの評価にさらされる。つまり、"普遍性"に投げ出されるのである。ここでは厳しい批評にさらされ、むしろ自己価値喪失の契機となるかもしれない。だが、これこそ「承認」のプロセスである。この批評と承認のプロセスを通して、「正義」とは違い普遍性の基準を外部へと求めることになり、「成功」とは違い批評による人間的な承認の契機を得るのである。

ヘーゲルの「事そのもの」論の正式なタイトルは「精神的な動物の国と欺瞞、あるいは事そのもの」である。欺瞞とは何だろう。それは「結局評価されたいから表現しているのではないか」という事である。普遍的な仕事などと言いながら、結局真の動機は自己価値でしかないのではないのか。ヘーゲルはこの「事そのもの」ゲームにおける相互欺瞞の困難を「個別性」と「普遍性」の間の矛盾として総括している。これは自己意識の中で個別性と普遍性の整理がついていない問題以上に、社会の方に問題がある。すなわち、社会が「サクセスゲーム」の論理に支配されているほど、正当な批評は後退し、「売れるか」という一般的評価基準(「成功」のゲーム)が前面に現れる。こうしてメジャーなカルチャーに対して正当さを求める危機意識としてサブカルチャー・カウンターカルチャーが現れ、「成功」のゲームで問題になった人間的価値の多様性を回復するのである。

さて、この「表現」の「批評」の場をアレントの「活動」における「公共性のテーブル」を重ね合わせて見ていくことでこの表現のゲームが「労働」に対してまさに人間的自由であること、
そしてアレントと同じ帰結としてマルクスの「労働時間の短縮」が現れることを見ることで、マルクスにとっても労働時間の短縮は必要条件であり、当初の目的は人間的自由であることを見ていくのだが、
この流れは最初の『資本論』に対するコメントの、引用されていた部分を引用することで一旦終わりたい。

未開人が、彼の欲望を充たすために、彼の生活を維持しまた再生産するために、自然と闘わねばならないように、文明人も(略)そうせねばならない。文明人が発展するほど、この自然必然性の国は拡大される。諸欲望が拡大されるからである。しかし同時に、諸欲望を充たす生産諸力も拡大される。この領域における自由は、ただ次のことにのみ存しうる。すなわち、社会化された人間、結合された生産者が、この自然との彼らの物質代謝によって盲目的な力になるように支配されることをやめて、これを合理的に規制し、彼らの共同の統制のもとに置くこと、これを最小の力支出をもって、また彼らの人間性にもっとも適当な諸条件のもとに、行なうこと、これである。しかし、これは依然としてなお必然性の国である。この国の彼方に、自己目的として行為しうる人間の力の発展が、真の自由の国が、といってもかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ開花しうる自由の国が、始まる。労働日の短縮は根本条件である。
(マルクス『資本論』向坂逸郎訳)


最初はクラファンやNPO寄付の話だったので、最後にそこに戻ろうかと思う。

「クラファンが正当化されるとしたら表現としてだ」というのが当初のアイデアだったのだが、どちらかというと重要なのはクラファンなどでやりたがっている企画"活動"が"表現"なのがポイントになる。
これを「飯の種」とでも捉えると労働になるのだが、まぁ基本的にそうではないだろう。

労働以外のこと、特に活動をやっていくことこそ人間的自由の回復なので、喜ばしいことなのではないか。
この「活動」が一種の「表現」、すなわち内的な個性の外化であり、それを批評の場に投げ出すことなのだから、競争に見えるのだが、あくまで「正当な評価」を与えるべきだろう。必要なのは「基準を表現者個人ではなく外部におき、そして人間的な批評によって成功/失敗のゲームではなく価値の多様性を生むこと」である。

そして、その評価をお金という「一般価値評価基準」とするのか、または"いいね"などにするのかはまた別の話だが、「"いいね"のため」と言われるより「売れるため」と言われると「欺瞞」がより強く生まれる。「労働」、あるいは"「成功」のゲーム"なのではないかという「欺瞞」は「事そのもの」が内包している元々の性質だ。あくまで誠実な「事そのもの」が目指すのは「内的な個性を外化させ、またそれを批評の場にさらすことで普遍的価値を表現すること」である。

どのみちお金は必要である。とりあえずアーティストも"いいね"だけではやっていけない。これを「労働時間を短縮し、活動を行うこと」を目指すのか、今いるアーティストのように「表現を仕事とする」のかは意見が分かれるところなのかもしれない。色々あっていいと思うが。

エッセイなので適当に思ったことを書いていて、結論もなく終わろう。

5000字超えている(まぁ引用込みだけど)のだが、今出ているレポートが
・西洋社会思想史で3000~4000字程度。ヘーゲルの『法の哲学』で書くつもり
・東洋社会思想史で2500字以上。朱子学・陽明学と明治維新について書くつもり
なんですよね。趣味で平気で5000字書いてこっちに手間取るとか滑稽すぎる。ていうかその文字数で言いたいこと言えるのかな…
ちゃちゃっと終わらせて単位を回収します。ほんとはnote書いてる場合でもないんやけどこの内容ならレポートに繋がるから許してください。
以上

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