朱子学

南宋の朱熹(1130〜1200年)が儒教 Confucianismを再構築したものが朱子学 Neo-Confucianismである。科挙や江戸幕府で重要視された。朱熹は『大学』『論語』『孟子』『中庸』を「四書」として重要視した。

修己治人

儒教が"徳治主義的なリーダーの哲学"のように理解されるように、
朱子学の目標は根本思想である「修己治人」(己を修めて人を治む)を、「理」の把握によって実現することである。

「理」とは形而上の諸法則である。この「理」は社会と宇宙を貫いているものと考えられている。

性即理

「理」をどのように把握するか。北宋の程頤、そして南宋の朱熹は「性即理」であると主張した。つまり「性」の把握が「理」の把握に繋がる。(カントの「道徳法則」に近い気がする。)

「性」とは人間のもって生まれた本性である。ここに「修己治人」の主張の根幹が見える。つまり、己(性)を修めることは人(社会)を治めることと「理」を通して繋がっている。

道徳

「己の欲せざる所は人に施す勿れ」は『論語』の中の孔子の言葉だが、上の哲学を端的に表している。これはホッブズの『リヴァイアサン』の「諸自然法」での「あなたが自分自身に対して、してもらいたくないことを、他人に対ししてはならない」に通ずるところがある。

もちろん現代では「あなたが自分自身に対して、してもらいたくないことでなくても、他人が嫌がることはしてはならない。」である。
これは「他人の自由を侵さない限り、人は自由である」のような、自分基準ではなく、あくまで他人の自由を基準にする法の考え方である点で、ホッブズや孔子とは違う。
もっと身近にはハラスメントの定義「本人が嫌ならハラスメント」であろう。

しかし、「究極的に他者を理解したうえでの振る舞いについて」、また「衝突を前提とした法の考え方」で孔子を批判するのもナンセンスかもしれない。儒教は法治主義ではなく徳治主義だ。「相手のことが完全には理解できていない状況で"いかに争いを避けるか"」が道徳の出番であり、唯一の判断軸が自分ならやはり「己の欲せざる所は人に施す勿れ」なのかもしれない。
『論語』には次のような一節もある。
「子曰わく、訟を聴くは、吾猶お人のごときなり。必ずや訟え無からしめんか。」(孔子がおっしゃいました、「私とて人並みに訴訟を裁くことができるであろうが、それよりは訴訟自体を減らしたいと思う。」)

性善説

さて、朱子学が法というより道徳の学問であることを確認した上で、「性即理」を根拠とした「修己治人」に話を戻す。

孟子や朱熹は性善説である。つまり、人間のもって生まれた本性である「性」は善であり、「性即理」であるから社会や宇宙の形而上の諸法則である「理」も善である。

ここで、「では、なぜ悪があるのか」という「悪の問題」に当たるが、アウグスティヌスの「神の国と地の国」、もしくはプラトンのイデア論と同じ解決を見る。つまり、「完璧でない、すなわち善も悪もある形而下の存在」との二元論である。

理気二元論と道徳実践

朱熹は存在論として「理気二元論」を主張する。「気」とは形而下の万物を構成する要素であり、善も悪もある。「気」は常に運動しており、運動量の大きいときを「陽」、小さいときを「陰」と呼ぶ。形而上の諸法則である「理」と形而下の万物の構成要素である「気」は互いに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係である。善である「理」は善でも悪でもある「気」に秩序を与える。

そして、この存在論である理気二元論が道徳の実践にまで貫かれている。現実の人間では、善も悪もある「気」が乱れる(「情」や「欲」)ことがあり、これを「性」に戻すことで「理」となり善となる。これが「修己」であり、朱子学の道徳的テーマである。

理気二元論と物理学

先に述べたように「理」は社会と宇宙を貫いているので、道徳であると同時に物理法則でもある。
そして、陰陽五行(五行思想とは万物は火・水・木・金・土の5種類の元素からなり、お互いに影響しあうことで変化し循環するという説である。「気」が凝集して五行になると考えられている)が物理的に正しいかはさておき、「気」の"万物の構成要素"というテーマは、アナクシマンドロスやタレスから始まるギリシアの自然哲学と同じである。

少し話は逸れるが、理気二元論は物理学のテーマとかぶる。物理学とは自然現象を
1. 物質間に働く相互作用によって理解すること(力学的理解)≒「理」
2. 物質をより基本的な要素に還元して理解すること(原子論的理解)≒「気」
である。

「理」が社会と宇宙をひっくるめていることで、朱子学が道徳と自然現象のアナロジーを多用することはよく知られているが、個人的には理気二元論の切り分け方が物理学と同じであることの方が感動的だ。
17世紀、ホッブズの直前〜ほぼ同時期のデカルトの心身二元論よりよっぽどクリアだ。
あれはあれで心身問題を考える契機かもしれないが、まず議論の余地を残すより漏れなく被りない二元論であることが素晴らしい。

朱子学的なテーゼ

逆に
・「理」が社会と宇宙を貫いた諸法則であり、その間で類推されること
・「性即理」、すなわち人間(特に自己)の本質と社会/宇宙の諸法則を同一視すること
は現代人からすれば"確からしくない"。
個別には納得できることも多いかもしれないし、例えとしてはかっこいいことも多いかもしれないが、命題としてはやはり違和感がある。
ここは"朱子学的"だと思って楽しむべきところだろう。

「礼」と朱子学のイメージ

ここまでの話で「あれ?今まで持っていた儒教/朱子学のイメージと違う」という人が多いかもしれない。
一般的なのは「儒教/朱子学といえば身分制階級秩序」というイメージだろう。

確かに朱熹は晩年、理気論や心性論より社会秩序構築のための「礼」を重視していた。
そして時代は下り清や江戸幕府でその側面が重視された。

そして、それを反射的に批判するのは根拠が薄いと思っている。確かに人権擁護、また自由競争原理から見れば弊害に見えるのだろうが、何の道理や方向性も与えないことは自由でも個性でもない、ただの放縦であり、獣みたいなものだ。
「褒めて個性を伸ばす」「好きなことで自由に働く」の一辺倒がチヤホヤされすぎていることの方が怖く感じることも多い。
道徳がないと人間ではないし、道徳は叱らないと身につかない。
道徳そのものを旧態依然としたものと見るのではなく、「従来の道徳」をそう思うなら自分で「現代の道徳」とは何かを考えればいい。
それで歴史に頼りたいなら朱子学の出番かもしれない。

「礼」の要素も理解しつつ、その上でやはり個人的には朱子学の基礎の部分を見ていきたいと思っている。

これから

『大学』『論語』『孟子』『中庸』の「四書」の中身を見ていきたいと思っている。
特に朱子学の基本として挙げられている『大学』は是非まとめたい。
手元に『大学』の解説はあるけど本そのものはないので、解説/解釈しつつ四字熟語/故事成語を見ていくのも面白いかなーと思っている。

もうひとつ気になるとすれば渋沢栄一の『論語と算盤』
朱子学なのかはさておき流れで読んでみたい。

あと、手元に吉田松陰があるので、陽明学もやろうかなと思っている。
(その前に返却期限がくるかも)

それではこの辺で。

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