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東京造船所???石川島ではなく???

別件で昭和30年代の官報で決算公告を眺めていたら、当時としては割と大きいバランスシートを有する「株式会社東京造船所」なる会社を見掛けまして、えっ?石川島重工以外に大きい造船所って東京にあったっけ?となりまして、そんなことをしている暇もないのについつい調べてしまいました。せっかくなので忘れないようにこちらに記しておきたいと思います。

出所:官報(昭和33年6月17日)

後の石川島造船化工機→IHI造船化工機

で、官報を検索してみると、昭和36年8月段階で東京化工機株式会社という会社と合併してその後は現れなくなります。Google等で検索してもこんなありがちな名前の会社だとまあまずまともな検索結果は期待できないですよね。この時点で、ンンン、何だこの会社、となった次第です。
志ら毛染君が代の時にも書きましたけど、こういう時は合併に伴い社名変更しただろうなという感じもするし、住所や代表者の名前で前後数年を検索するのがまず第一歩で、そうすると今度は同一の住所(東京都江東区南砂町四丁目六二五番地 ※住居表示前なのでこの住所では地図検索できない)で石川島造船化工機株式会社の昭和38年9月期決算が出てきます。
ああやっぱりIHIですかと思いながら石川島造船化工機で検索すると、2008年に株式会社IHI造船化工機に社名変更しているのがすぐ出てくるし、次いでIHI造船化工機で検索すると「当社による連結子会社2社の吸収合併について 」(2009/10/26)というIHIのIRリリースでIHI本体に吸収合併されたことと、設立が昭和18年であることまではすぐに把握できました。
しかしIHIの有報には東京造船所の記載はないし、資本関係はいつできたんだろ?っていうかそもそも場所どこ?というあたりが次の疑問になってきますね。

場所はIHI砂町工場だったところ

住所については再び官報に戻って石川島造船化工機やIHI造船化工機の住居表示以降のものを探せば出てくるわけで、そうすると1967年以降は住所が新砂2丁目3番43号となっています。IHI造船化工機吸収後はIHI砂町工場と称していた場所で、南砂町の汽車製造会社の跡地から越中島貨物駅に向かうところの、佐川の大きい倉庫があるあたりか!という感じですね。

出所:国土地理院地図(マーカーは筆者)

ここに造船所があったなら過去の航空写真に写ってるはずだろという話になるので見てみると、見事ですね、特に終戦直後の米軍撮影のものなど見ると何もないところに作られたことがわかります。むしろこの造船所の敷地の外に道路が敷かれていった感があるほどで。

出所:国土地理院 空中写真 1961~1969年 (マーカーは筆者)
出所:国土地理院 空中写真 1945~1950年 (マーカーは筆者)

海軍主導で作られた会社だった

さて、となると続いて気になるのは、東京造船所時代から石川島重工業(当時)と資本関係があったのかどうか、ということになります。ひょっとすると企業再建整備法で別な社名(石川島ナントカ)から第二会社として改組した会社なのか、あるいは集中排除法で石川島造船所/石川島重工業から分離した会社なのか、いやいや昭和18年設立ってなってるでしょ、とか色々なことを思いながら、みたび官報を見ますと昭和24年7月15日付官報に有限会社から株式会社に改組する旨の公告が見つかります。企業再建整備法や集中排除法は関係なさそうな雰囲気が漂ってますね。

そこで国会図書館サーチや国会図書館デジタルに当たるわけですけど、石川島重工業で検索すると関連会社に東京造船所と出てくる資料は割と見つかるので「やっぱり…… そうか…… そうかなとは…… 思ってたんだけど……」という感じになります。
そこで終わってしまってもいいんですけど、そもそも有限会社だった件とか創業の経緯とかどうなってんのというところまで踏み込んで知りたくなってくるのが人情というもので、さらに検索を進めると掛樋松治郎 編著『東京造船部隊の回顧』,掛樋松治郎,1965というのが出てきます。こちらの本を読むと、
✅戦況の悪化で昭和17年に貨物船と油槽船を大量に作る必要が出てきた
✅大量生産・納期短縮のために戦時標準船の規格を作り、生産するための簡易造船所として三菱重工若松造船所、播磨造船所松の浦、川南工業香焼島と並んで設立された
✅東京造船所は艦政本部主導で東京湾土地(←IHI化工機と一緒にIHIに吸収されている会社)から土地を借りて、石川島の指導で生産することになった
✅当時は臨時資金調整法の規制で20万円以上の資本金の会社を設立するのに大蔵省の許可が要るので資本金を18万円として、石川島造船所が10万円、横河橋梁(現・横河ブリッジ)、松尾橋梁(現・IHIインフラシステム)、宮地鉄工所(現・宮地エンジニアリング)、汽車製造(現・川崎重工業)の4社が2万円ずつ出資
✅労務者は前橋刑務所の囚人
✅生産された戦時標準船はE型
といったことが書かれています。設立の経緯と資本構成については全て氷解しました。しかし一方で戦時標準船となると俄然艦これっぽさが出てきますよね。特2TL戦時標準船の山汐丸とか実装されましたし。

戦時標準船は2E型・3E型

『東京造船部隊の回顧』だと改3E型と記載されたりしているのですが、昭和18年8月16日に進水した一番船の日雀丸は渋沢社史データベースには改2ERS型とされていますし、こちらの詳しそうな方のツイートだとやはり2ERSのようです。2E型と3E型は基本的には大きな差はなさそうですけど、「3E型や戦後に完成したものを含む496隻が計画され、468隻が起工。463隻が竣工」と生産数はわかってるわけですから、東京造船所の製造分も記録がありそうですね。
 # 2ERS型と2ED型の違いはこちらを参照

ちなみに生産キャパについては『交通年鑑』昭和22年版,交通協力会,1947に比較が出ていまして、有名どころでは三菱重工長崎で11万トン、川崎重工神戸で6万トン、石川島造船所で4万トンとなっているのに対し、戦時標準船用の簡易造船所は川南工業香焼島で12万トン、三菱重工若松で7万トン、播磨造船所松の浦で10万トン、東京造船所で5万トンと確かに大量生産ができていた様子がうかがえます。
# そういえば川南工業といえばちょっと前に読んだ『三菱重工が長崎造船所香焼工場を売却 元オーナー川南豊作がたどった数奇な運命』(文春オンライン、2019/12/18)が面白かったので興味ある方は是非

戦後賠償の指定施設に

戦後の賠償については極東委員会が主導して策定され、特に在外資産の放棄・譲渡が重かったことに加え、国内でも極東委員会/GHQが賠償指定工場ということで多くの軍需工場が指定されたこともよく知られているところですけれども、造船所についても20造船所が賠償指定施設となり、東京造船所も含まれていたようです。軽く眺めた感じだと、運輸省海運調整部 編『海事年鑑』1950,船舶会館,1950に経緯や詳細が良くまとまっていると思います。

悩ましい貸借対照表

つらつら書いてきましたけど、そもそもは決算公告を見ていたわけで、では財務諸表はどんな感じかというと、貸借対照表しかないのですが、まとめるとこんな感じでした。(一番古いところから合併して石川島造船化工機になるまで)

出所:官報より筆者作成

特徴的な点としては造船造機なんで仕掛が大きいとか前受・仮受が大きいとか古い時代なので有形固定資産は取得額で載っていて負債に減価償却引当金があるとか色々あるんですけど、注目すべきところとしては、先日「インフレと資産評価に関する制度~資産再評価法と資本充実法(昭和20年代の税制)」で書いた話が東京造船所でも見られて、
✅資産再評価法による再評価積立金が昭和26年以前だけでなく昭和27年にも乗ってきていること
✅資本充実法による再評価積立金が昭和29-30年に乗っているものの、損失を出してほぼ使い切っている
✅資本充実法による評価額は600-700万くらいに見えるのであまり大きくない(欄外に昭和30年3月末に再評価積立金を約1600万円取崩した旨の記載がある)
というところですかね。
あと、資産に「特別仮勘定」負債に「特別仮勘定」「特別損益勘定」というのが出てくるんですけど、これは他社にも見られないし、財務諸表規則にも出てこない(そもそも時代的に存在しない)ので、一体何なのやら、とボブは訝しんだ、というあたりで今日は終わりたいと思います。


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