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消費対象としての「英語」

去年の今頃は大学の卒業論文の大詰めの作業をしていたと思う。確か、1月8日の提出であったので、死にもの狂いで書いていた。

字数が足りないとかいうことはまったくなかったが、自分の言いたいことがうまくまとまらなかった。

私の卒業論文は『消費対象としての英語ー日本の英語産業における広告やキャッチコピーに注目してー』だ。

簡単に言うと、日本における「英語」は今や商品の一つになっているというものだ。それを英語産業の広告やキャッチコピーをたくさん調べて考えた。ここではその概要を少し書こうと思う。

ご周知のとおり、日本で生活するには「英語の能力」はほぼ必要ない。必要なのは、英語を使用する仕事に従事する人や、英語話者とのコミュニケーションが必要な人くらいだろう。学校の先生ですら、そこまで高い英語能力は必要とされない。

確かに中学、高校、大学では英語を勉強するが、それは主にその人の学力や能力を測るモノサシとして利用され、将来必要となる能力を備えるものではない。

としたら、日本ではなぜ皆が英語を勉強するのか?英語を必要とする人が圧倒的に少ない中、英会話教室や英語の検定試験がなぜこれだけ盛んなのだろうか?

それは日本における英語が「消費対象」や「商品」と化しているからである。

英語を必要としない人が多いのに、英語を勉強したい人や英会話に憧れる人が多いのは「英語」を買わされているからだ。それは誰にか?主にはアメリカやイギリス、日本の巧みな英語産業界だ。

少々、陰謀論のように聞こえてしまうが、彼らは「英語」という商品でお金を巻き上げているのだ。英会話スクールや英語教材、英語の検定試験、留学プログラム、ALTへのお金はどこに流れているかということを考えればすぐに意味が分かるはずだ。

ただ、英語産業は「英語を勉強しよう!」などという下手な文句は使わない。そこでは「新しい自分」「話せる英語を身に付けて次のステージへ!」「アナタの英語力は十分ですか?」などというフレーズが蔓延る。

時には英語の特別な力(と彼らは想定する)をアピールして、時には英語の苦手な人の意識を刺激する方法で訴えかける。このような広告やキャッチコピーは電車の中などに多い。

私は「英語を勉強することがいけない」とは思わない。むしろ英語ができた方が人生の選択肢は増えるだろう。できるに越したことはない。

ただ、危険なのは「なんとなく英語をやる」という抽象的な動機による学習だ。日本の教育を受けた多くの人がそうであったように、語学は生半可な気持ちでは身に付かない。趣味程度にやるのは時間の無駄であるし、教養としてするならば英語以外にも言語は多くある。

また、「カッコいい」からという動機も注意すべきだ。「カッコいい」と思ってしまうのは、英語産業が巧みなフレーズでそう思わせているだけだ。「英語で次のステージへ!」というようなフレーズも見かけるが、「英語」に言語を超越した働きがあるとは考えにくい。さらに、英語を話す人がカッコよく見えるのは、白人のスピーカーという話者のバイアスが関係している。英語は白人がカッコよく話すものというイメージが強いため、おそらく多くの人はインドのスピーカーやシンガポールのスピーカーから優先的に学びたいとは思わないだろう。

このように日本の英語産業には巧みなフレーズやイメージ操作が溢れている。受験や進学で英語が必要な学生を除いて、多くの人が英語を勉強したがるのはそこに巨大なマーケットが形成されているからに他ならない。書店の英語のコーナーの広さをみれば、「英語」がどれだけ美味しい巨大なマーケットかが一目でわかるだろう。

これらを踏まえてもその英語学習は本当に必要なものだろうか?

人生の時間は有限だ。その時間をTOEICの勉強や英会話にばかり費やしてしていいのか、よく考えるべきだと思う。

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