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僕を見送るタイタニック

劇場で『タイタニック』を観た。感じるところがあったので少し書く。

とはいえ映画評の類では無い。その手の優れた文章は既にたくさんあるので回れ右してそちらを読んでください。そもそもこの文章には映画自体の話はほとんど出てこない。ノスタルジーやルサンチマンがぐずぐずあふれ出るだけの独り語りに過ぎない。

『タイタニック』が最初に日本で一般公開されたのは1997年12月20日。同じ年、同じ月の1日に僕はスタジオに就職した。スタジオというのは博多区の巨大商業施設にある外資系ホテルの写真スタジオで、ほどなくしてそこは辞めるのだけれど、辞めた後も現在に至るまでカメラマンは続けているので1997年12月1日は僕がカメラマンになった日ということになる。だからどうしたな話ではある。

ところで、この巨大商業施設は巨大なだけあって様々な施設がひしめき合っている。複数のホテルにショッピングモール、演劇場にレストラン、運河に噴水にナム・ジュン・パイク、そして九州最大級のシネコンがあった、というか今もある。

僕がカメラマンになった19日後、僕の後を追うかのように(追ってない)公開されたのが『タイタニック』だ。劇場で映画を観ることが今よりも娯楽の中心だった時代である。しかもクリスマスシーズン、巨大商業施設はイルミネーションに彩られる。華やかな空気の中、たくさんの人が『タイタニック』に押し掛けた、らしい。スタジオが入っているホテルとシネコンは向かい合う形で目の前なのだが、僕は公開当初のその狂騒を見ていない。

スタジオ入社後わずか二週間で倒れたからだ。公開日には千鳥橋病院にいた。僕が入社したスタジオは充実した設備が自慢ではあったが人権という概念は設置されていなかった。入社後、毎日殴られ罵られる日々に心身が疲弊したらしい。満員の劇場でタイタニック号が氷山に衝突した頃、僕の十二指腸には穴が空いた。

年明けて1998年1月、復帰した僕の横で先輩たちは当然のように『タイタニック』の話をしていた。面白いらしい。感動するらしい。ディカプリオが美しいらしい。少しでも打ち解けたかった僕は、そんなにいいんですね僕も観ようかな、と、当たり障りの無い言葉で会話に入ろうとした。先輩は「は?なんでお前が行くの?」と返事をした。目も声も冷たかった。別の先輩は小馬鹿にするように笑った。入社後すぐに倒れた役立たずの新人に先輩の風当たりは強かったのだ。僕は出来るだけ目立たぬよう殴られぬよう粛々と仕事をして、まあそれでも殴られるわけで、殴られるのは愉快では無いので終業後は俯いたまま速足で帰宅した。

『タイタニック』はその後も上映延長を続けた。スタジオが入っているホテルからはシネコンのエリアが見える。春も夏も『タイタニック』は間違いなくそこにあった。僕も少しは仕事に慣れたようで毎日殴られることはなくなった。四日に一度くらいに減った。

僕が出勤していない日に誰かが起こしたトラブルが何故か僕のせいになり上に報告されたあたりで限界がきた。スタジオを辞めた。『タイタニック』はまだロングランを続けていた。

話はいきなり今日に飛ぶ。

『タイタニック』を劇場で観た。DVDで何度も観た作品だ。地上波で流れた日テレ石田彰吹替版も、なんならフジの妻夫木聡吹替版も見ている。いまさら劇場に行かなくても、と思わなかったわけでもない。実際、10年前の3D版上映時も観には行かなかった。だが、なぜだろうか?今回は「観なければいけない」と感じた。だから観に行った。場所は25年前、毎日目にしていた例のシネコンである。

作品は素晴らしかった。そんなことは最初から知っている。傑作である。誰が生きて誰が死んでネックレスがどうなるかも勿論知っている。あのシーンのグロリア・スチュアートの顔がとても好きだ。知っているのにどうしてこんなに涙が流れるのか。ジャックとファブリッツィオが船に飛び乗ったあたり(かなり序盤だ)で既に目が潤んでいた。タキシード姿のジャックが時計の前で振り向いた時には嗚咽していた。そして泣きながら混乱していた。なぜ俺はこんなに泣いてるんだ?大きいスクリーンの迫力?3Dで生まれかわった映像?いや、なんか違う。それはもちろん素晴らしいのだが、これはそういう涙じゃない。

観終わった後、しばらく椅子に座ったままで余韻に浸りたかったが、ほぼ満席の劇場内ではそうもいかない。立ち上がり、のそのそとエスカレーターをくだり、テラスに出ると古巣のホテルが目の前にあった。赤煉瓦色の建物を見ながら息を吐いた。そこで涙の理由に気づいた。

25年前のあの頃、僕は劇場で『タイタニック』を観たかったんだな。

よくよく考えると、なぜ劇場で観なかったのか不思議だったのだ。スタジオを辞めれば先輩はもう先輩では無い。僕が辞めた後も上映は続いていたわけで、先輩の目や声を気にせずシネコンに行くことは出来たはずだ。

でも行けなかった。スタジオを辞めておよそ1年程はその巨大商業施設には近づけなかった。建物を見ると愉快では無い思い出に足がすくんだからだ。

当時、そのシネコン以外でも『タイタニック』は上映されていた。たしか天神東宝か中洲大洋でかかっていたと思う。でも観に行かなかった。「は?なんでお前が行くの?」先輩の声が頭に残っていた。

勿論、こんな古い話(25年前だ)をずっと覚えていたわけじゃない。記憶に蓋をしていたのか、そもそも忘れっぽいのか、先輩の言葉も十二指腸潰瘍のこともすっかり忘れていた。今ではそのシネコンにも月に数回は通っていて、毎回、上映後はテラスから古巣のホテルを見ていた。見たところで何の感慨もなかった。なのに今日、テラスに立ったときは風景が違っていた。

満席の劇場で、皆で『タイタニック』を観たことで、蓋をしていたあの頃の自分が浄化されたのかな。あるいは成仏したのかな。まあ、どちらでもよい。幸福だった。良かったな、97年の俺。25年前、惨めさを抱えてスタジオは辞めたけど、腐らず写真家であり続けて報われたな。

上映後、映画館のテラスからホテルを眺め、ひと息ついた僕はグロリア・スチュアートみたいに笑っていたはずだ。

25年目の『タイタニック』のおかげで。



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