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数年前から気になっていたことがありました。 あるマイナーな小説家のファンだった私は、この小説家が書いたものを探していました。出版された単行本は2冊で、これはすぐに読むことができますが、ほかに雑誌掲載されただけで単行本に収録されていない小説があり、そのいくつかの雑誌を探していました。 Wikipediaの情報によれば、その小説家は2000年代から2010年代のおよそ10年間のあいだに3つほどの雑誌に10本ほどの小説を発表していることになっていました。比較的最近の発行なら出版社の
芥川賞と文芸雑誌と新人文学賞について、 記事を書きました。
毎朝通る交差点に、同年代の男の姿がある。 数年前、この交差点で事故に遭って亡くなった男の子の父親だ。 小学生の男の子は、友達と下校途中、よそ見運転のトラックにはねられた。 スマホで流行っていたゲームをしながら運転していたという。 男の子は、私の息子と同じ空手教室に通っていて、送迎の時や大会の時に見かけたことがあり、話したことはないが顔くらいは知っていた。息子を連れて葬儀に行った。 マスコミの取材が来ていて、父親にインタビューしたり事故に遭った時一緒にいた子供たちにも話を聞いて
私は中学生の時にラジオ番組へのネタ投稿に夢中になり、それなりに採用されて、いわゆるハガキ職人でした。ある時番組の忘年会に呼ばれて、局の裏のお寿司屋さんへ行くと、メインパーソナリティーほか出演者が揃っていて、めちゃくちゃ緊張して嬉しかった私ですが、まだ中学3年なのでジュースを飲んでいると、メインパーソナリティーに呼ばれて、「君はセンスあるから、東京か大阪で放送作家になるといい」などと言われて有頂天になっていました。 地元の高校に進学する予定でしたが、親に「東京に行って放送作家に
私が推したい会社はGFCという会社で、別荘をシェアするメンバーシップを運営しています。 簡単にいうと、別荘をサブスク的に利用できる、というシステムです。 都市で働いていると、自然志向が高まり、地方や田舎の山や海がキレイな場所に暮らしてみたいという願望が強くなるもので、なかには移住してしまうという人もいます。地方の自治体には移住を支援するところもたくさん出てきています。 私も、なんとなくですが「いつかは自然あふれる土地に」と思ってはいましたが、なかなか移住までは思いきれずにいま
2020年11月、私は勤めていた会社を辞めることを決めた。 この年の春ごろから新型コロナの影響で業績に大きな打撃を受け、会社はまず経費削減に取り掛かった。営業職だった私は、ガソリンや備品の節約、出張宿泊をなるべく抑えるなどの影響があった。 節約は仕方がない。普段から意識すべきことでもある。しかし遠方に出張し、戻ってくるとなると、夜も遅くなったりする。実質的なサービス残業だ。さすがに社員にそこまで求めるとコンプライアンス的に問題があるようで、実際には「出張宿泊は認めるが、3日前
いろいろ飛ばして結論から言うと、「生きる以上は法律より優先することがある」というごく当たり前のこと。 問題は、その当たり前のことに気が付かない「大人」たちが多すぎること。 戦争を伝えるとか、教師も大変だとか、被爆の実態とか、はだしのゲンでしか伝えられないことではない。 主人公が窃盗をしてしまうのはたしかに法律に反している。 野坂さんの「火垂るの墓」でも、窃盗するシーンがあり、今回と同じように子どもたちへの影響が懸念されて、もうずいぶんテレビで見なくなった。 もちろんそれだけで
コロナになって2年目から、3度引っ越ししている。 1度目は、長く住んでいた愛知から滋賀県の長浜市へ。約1年。 2度目は、長浜市から福井県福井市へ。約9か月。 3度目は、福井市から大阪市へ。今3か月が経った。 歴史と仏教が好きな私は、コロナの機会に、長浜、福井、大阪、とこの2年あまり、転々とした。 歴史の中でも好きな時代は、安土桃山時代。なかでも浅井3姉妹の生き方とその父、浅井長政が気になって、まず長浜へ移住してしまった。450年前の浅井氏の領地である北近江、湖北、小谷城。そ
私は20年近く前、結核の疑いで隔離入院したことがある。 痰を培養して結核菌かどうか調べる、という検査入院で、結果的には肺炎だったが、抵抗力が落ちていたことに変わりはない。 その際に病院の人と話していて、「若い人で結核になる人が多いが、栄養バランスや睡眠不足というより、清潔な環境で育っているから雑菌に対する抵抗力がそもそも弱い」という話を今でもよく覚えている。 とはいえ、私は医者でも専門家でもないから実際のところはわからない。つまり人間にとって現代の生活が清潔すぎるのかどうかは
秀吉の城ができ、支配が安定し始めて、私たちはようやく外へ出られるようになりました。伯母さんのいいつけで、ふたりともあの野良着を着て、近くの田んぼで働きました。農民のお手伝いです。私たちはやったことも見たこともない田植えや草取りや収穫を全部やりました。レンコンや大根も、時には腰まで水に浸かって残らず収穫して、川で洗って、木箱に詰めて。こんなに過酷な労働だとは想像したこともありませんでした。もちろん、食べるものも農民と同じ、一汁一菜でごくたまに焼いた川魚。集落の子供たちともかくれ
3 新生活 そして、私たちの新しい生活がこの庵寺ではじまりました。はじめのうちは、やはり警戒してほとんど外に出ず、姉と私は伯母さんが読み上げるお経を聞くばかりでした。毎日、伯母さんが父の戒名を唱え、私たちも繰り返しました。母は、菩提が違うのだろうかと、なんとなくそのあたりは言わないほうがいいと子供なりに気を使いながら、心の中ではひたすら父と母の供養を続けました。この当時は、様々な場面で男女の扱いが違うらしい、という事実は私たちもなんとなく認識していたのです。日常生活はも
久しぶりに故郷へ来てみたけど、思ったほど変わってない。 お城はきれいになくなってるけど、山頂から見るこの景色はほとんど変わってない。 足元から麓へ伸びるこの尾根筋と谷筋。 でも、ここでの記憶は薄っすらぼんやりしている。 それもそのはず、ここを脱出したのは私がまだ3つか4つだった頃。 ここは、最強の山城といわれた北近江の小谷城。 今は、滋賀県という名前でその北部。城下には新しい道や家ができてるけど、農村だった雰囲気は変わってないな。なにより、遠くに見える淡海がそのまま! 今、琵
幼いころに経験した小谷城の落城で父を失った浅井3姉妹でしたが、実は3姉妹は通説とは違う育ち方をしていました。 成長した3姉妹は再婚した母お市の方とともに越前の国へ。しかしそこで待っていたのは人生2度目の落城経験でした。 その後、豊臣秀吉のもと、次々に政略結婚、茶々は秀吉の側室に。 茶々は豊臣家跡取りとなる秀頼を産み、秀吉から寵愛を受けますが、秀吉の死後、天下は大きく動き、姉妹はそれぞれの婚家が敵味方に分かれるという厳しい立場に。 豊臣家の茶々と徳川家の江が対立、次女の初はその
4年ほど前の秋口、雨の中近所のスーパーへ行ったときのこと。 駐車場へ停めようとバックしていると、助手席の妻が突然「ちょ、待った!」とけっこうな声をあげました。 車止めのところに、子猫が。もちろん、ずぶ濡れで、震えていました。ずいぶん鳴いたのでしょう、口を開けて、鳴いているつもりなのでしょうが、声がかすれて出ていません。 買うものも買わず、とりあえずタオルに包んで動物病院へ走りました。うちには既にロシアンブルーが1匹いて、通っている医院がありました。 1週間ほど入院しま
SDGsでポイント、急所になるワードとして多様性があります。 ジェンダーの平等の実現だけでなく、程度の差はあれほとんどすべての項目に関連する、多様性。 私の取り組みは、この多様性に関する矛盾を発信すること。一見後ろ向きなこの取り組みは、実は現時点で取り組んでおかなくてはならない問題点のひとつだからです。 ここでは国内と世界から1つずつ事例をあげていきましょう。 ・国内「言葉の多様性について」 私たちは、どこで何を話すにしても、慎重に言葉を選び、場の雰囲気を和ませるジョーク