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もっと早く気づけばよかった

2020年11月、私は勤めていた会社を辞めることを決めた。
この年の春ごろから新型コロナの影響で業績に大きな打撃を受け、会社はまず経費削減に取り掛かった。営業職だった私は、ガソリンや備品の節約、出張宿泊をなるべく抑えるなどの影響があった。
節約は仕方がない。普段から意識すべきことでもある。しかし遠方に出張し、戻ってくるとなると、夜も遅くなったりする。実質的なサービス残業だ。さすがに社員にそこまで求めるとコンプライアンス的に問題があるようで、実際には「出張宿泊は認めるが、3日前までに申請し、承認をもらうこと」などという手続き化、条件を付けることで、出張宿泊するなとは言わずに、結果的に経費を削減しようとする。手続きは書類で提出する煩雑なものだし、前日に決まるような急な出張もある。
結果、自腹で宿泊するという事態が起こることもある。それでも、疲労などを考えたら多少のことは仕方がない。事故を起こすよりはましだ。会社も厳しい状態なのだから、給料が出るだけでもありがたい。
しかし、予想外のことが起こった。突然、営業車にドライブレコーダーが取り付けられたのだ。しかも、まあまあ高性能な。
「安全運転のため。もし事故が起きたときは映像が残っているから大丈夫。社員を守るため。現在地もわかるし、ルート軌跡で効率化も図れる」ということだが、要するに監視しようという意図はみえみえだった。
業績が落ちた理由が、営業スタッフが仕事してないから、ということだろうか、と思ってしまった。
いずれにしても、経費を少しでも削減して、自腹になっていることもある中で、けっして安くないドライブレコーダーを経費を使って設置しようというのが、どうもわからなかった。
コロナの影響は、経営の失敗でもないし、不可抗力というか、仕方がないと思う。だからたとえボーナスが出なかったとしても、踏ん張れると思った。社員の努力不足でもないし、社長が悪いわけでもない。
でも、ドライブレコーダーはなんか違うくないか。
案の定、他の営業社員が、勤務中に1時間にわたってコンビニにずっと停まっていたということで事情を聞かれていた。サボって寝ていたのではないかというのだ。でも、そういうことはよくある。客先へ行くときにコインパーキングがないとか、あっても最近は、それこそ経費削減のために。コーヒーだけ買って、とか。でも、そういうのって口にしたとたんに嘘くさくなってしまうから不思議だ。要するに、口を出しすぎたり干渉しすぎたりするとお互いにとって良いことなんてないということ。
そういうこともあって、だんだん会社の方針から気持ちが離れていった。
10年以上勤めた会社、愛社精神がないわけではなかったのに。
ただ、退職を決めたのはそれだけではない。出張でいろんな地方に行くうちに、その土地の良さとか人の良さとか景色の素晴らしさとか、とにかく自分が知らないだけで国内だけでもまだまだ素晴らしいところがいくらでもあることに気が付かされていた。いつか、全国を旅して回ってみたいなどと思うようになっていた。
それでも、自分には妻と子どもがいるし、35年ローンを組んで家まで買ってしまっている。働かず自由気ままに旅するなんて考えられなかった。現実的になんらかの収入がなければならないし、かといってサラリーマンはそろそろうんざりしている。
そこで、いろいろ調べてみた結果、フリーランスという生き方に注目した。世間ではユーチューバーがもてはやされ、中には高収入を得ている人もいるときく。しかし、自分はユーチューブを投稿したこともないし見ることさえ少ない。はっきりいうと、あまり興味をそそられないのだ。IT系のエンジニアとか、メカニック的な方面も苦手で、一から勉強するには歳をとりすぎている。そこでピックアップしたのが、ライターという職業。
もともと文系で本を読むのが嫌いではないので、やれるとしたらライターくらいしかなさそうだ。
クラウドソーシングというのに登録して、試しにライティングを経験してみた。意外に面白く書くことができ、初めて報酬をもらった時は感動した。1,200円だったけれど。
冷静に考えれば、これだけで生活していくことができるとは思えなかったけれど、もう心は前のめりになっていた。全国放浪の旅も夢ではない。すぐにでも出発したい気持ちになっていた。
当面は、退職金と雇用保険でつなぐことができるだろう。半年から1年くらいなら、その間にフリーランスライターの下地を作って、サラリーマンと同等程度まで稼げるようにしておく。どっちにしても雇用保険受給中は収入を得ることはできない。
私はついに会社を辞めた。
ひとつ、誤算があった。退職金について、会社は事前に金額を教えてくれなかったけれど、10年を超えているので、前職の事例などから推測しても300万程度はあるだろうと思っていた。ところが、50万しかなかった。それにコロナで貯まっていた社員旅行の積立金の返金を合わせても60万だった。でも今更抗議してもはじまらない。面倒だし、抗議して増えるとも思えない。むしろ、早めに辞めて良かったと考えた方が賢い。
役場や雇用保険の手続きを済ませるとすぐに車に乗り込み、西へと向かった。とりあえず、計画では四国に行くと決めていた。
節約のため、高速道路は使わずにすべて下道。明石海峡大橋大橋を渡り、淡路島で車を停めて一泊。翌日から徳島へ渡り一番札所で数珠や経本など最低限のアイテムを買った。四国88か所お遍路のスタート。徳島から高知、愛媛、香川。10日間をかけて巡礼をした。
ひたすら般若心経と真言を繰り返し、夜はスーパーで買った惣菜などを食べて寝て起きたらまた次のお寺へ。没頭するというのがこんなに爽快なモノで、邪念がなく決められた作法を繰り返していると、会社で細かい規則やお金に縛られていたことが嘘みたいに小さいことだったと思えてくる。
室戸岬も足摺岬も、その美しい海と強風で自分を応援してくれているように思えた。
四国を出て小さな島々をまわり、岡山にたどり着く。迷わずさらに西へ向かい、関門海峡から九州へ上陸。そう、その前に山口で立ち寄った瑠璃光寺の五重塔が素晴らしかった。仕事ではよく京都や奈良へ行って、東寺も醍醐寺も清水寺も興福寺も五重塔はほとんど見てきたつもりだったが、瑠璃光寺の五重塔はそのどれとも違う雰囲気を放っていた。東京スカイツリーでもその美しさではかなわない。
九州では湯布院で財布を置き忘れてしまうなどハプニングもあったが、幸い現金はほとんど入っていなかった。水俣病資料館では知らなかった当時の被害を知って愕然とした。
九州を1周して山陰を回り、びわ湖を経ていったん自宅へ戻るまでにトータル1か月。しばらく休んでまたすぐに、今度は関東へ、アクアライン経由で太平洋側を北上。
1か月半をかけて東日本をひとまわりして、自宅へ戻った。
全国放浪の旅は満足した。しばらくしたらまた行きたくなるだろうけど、もう一度行きたい場所ならかなり絞り込めている。普段はほとんど外出しない生活になりそうだから、車は売ってしまうことにした。維持費は安くないし、ちょうど車検の時期がきた。そうだ、次は青春18切符でも使ってのんびり在来線の旅も悪くない。GOTOトラベルも助かった。
さて、フリーランスライターとしてのスキルをつけなくてはいけない。登録したクラウドソーシングの無料講座などを受けたりして、いささか面倒なSEOの知識なども会得していく。でも自分が決めてやることだから、やっててもつまんないということがない。そのうち、旅や取材を兼ねたライターの仕事が中心になっていった。
今、収入自体はほぼサラリーマン時代に追いついてきた。家庭の経済はギリギリだけど、生きることを楽しむことができていると実感している。もう一度就職するという気持ちはまったくない。健康でさえあれば、サラリーマンでいう定年後でもライターなら続けられそうだ。少なくとも後悔はない。
今となっては、早めにきっかけをくれた会社に感謝しているくらいで、コロナさえ新しい生活へ転換するタイミングになってくれたと思っている。


#創作大賞2023 #エッセイ部門

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