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『古河蒼太郎の死をめぐる、悲しみとまやかしの午後』 (1)

 再会を果たしたばかりの三人、賢人と咲と蒼太郎は高校時代の仲間。意気投合した咲と蒼太郎は付き合い始め、賢人はおいてきぼりをくったような気持ちでいた。ある夜、蒼太郎は交通事故で帰らぬ人となってしまう。深いショックを受けた咲を慰めるため、咲への恋心を秘めた賢人は土曜日の午後に彼女の部屋を訪れる。それは蒼太郎の死をめぐる、悲しみとまやかしの午後となる。その後、空虚さに支配された賢人は、ただの夢ではないような不思議な夢の中で蒼太郎と話をする。蒼太郎は、自分が死んだ後の賢人と咲の事情をよく知っていたのだった。そんな夢を経たのち、はたして賢人の恋心によって壊された咲との関係の修復はなるのだろうか?

<あらすじ>


 古河蒼太郎こがそうたろう が死んだことを、岡島賢人 おかじまけんとは悲しんだ。あまりに突然だった彼の死の報せは、賢人に大きな途惑いを覚えさせ、やがてあるひとつの考え事に深く沈み込ませていった。
 
 *
 
 息を吸うと鼻の中が凍てついてくる。それは、それほど寒さの冴え渡った夜半近くだった。横断歩道を渡りはじめてすぐだったらしい。歩行者である蒼太郎を確認せずに左折してきた乗用車に彼は轢かれたのだ。この横断歩道は今夜も無人のはずだ、とそれが当たり前だというように決めつけたドライバーは、一時停止をせずアクセルを踏み込みつつハンドルを切った。ぶつけられた衝撃はかなりの大きさで、ダウンコートのポケットに両手をつっこんでいた蒼太郎は、そのまま勢いよく突き飛ばされ、丸太のようにごろごろと激しく地面を転がった。目撃証言によれば、とくに転倒したその最初の瞬間に頭をひどく打ちつけていた。真冬の二月頭とはいえ、撒布された融雪剤のために、路面は剥き出しのアスファルトである。路面を厚く覆うほど雪の降り積もるような夜であったならば、また結末は違っていたのかもしれない。

 意識不明で運ばれた病院で、蒼太郎は翌日の夜明けの頃にはもう息を引き取った。回復の兆しは少しも見られなかったということだった。享年三七歳。賢人らと同年の、彼が生きる時間の流れは、そうやって断ち切られたのだった。

 賢人はその日の昼休みに、宮家咲みやけさき からの電話でこの訃報を知らされた。三人は、新型コロナウイルスが季節性インフルエンザと同じ「5類感染症」に引き下げられたころ、結局は流れた同窓会の誘いをきっかけに連絡を取り合うようになり、再会を果たし、それから不定期に集まるようになっていた。

 賢人たち三人は一〇代の頃、かぐわしかったり酸っぱかったり甘ったるかったりじっとりしていたり眩しかったりしたいくつもの雑多な時間、それでいて派手さのあまり感じられないその多くは気だるげだった時間を共に過ごした仲だった。過ぎ去っていった、代わりとなるもののない、共有された時間を想い出として共に携えている、なつかしい高校時代の友人たちだった。

 大きなショックを受けた賢人は、札幌市西区にある、店長として取り仕切っている道内大手小売チェーン店の、狭い休憩室の壁際に設えられている長机の奥のほうに腰掛けて、自店のから揚げ弁当をほおばっていたところだった。だが、咲からの電話連絡を受け終えた後、食べ直そうと持ち上げた箸の震えが止まらなくなり、震えた指のままで箸を置き、両手をふとももの上に置くと、パイプ椅子の背もたれに深く沈み込み、顎を引いて眼を閉じた。左眼のまぶたが、ぴくぴくと細かくけいれんしだしている。

 なんでまた、と賢人は蒼太郎が死んだというそのわけのわからなさに混乱する。鼓動が速く強く体の内側で響く。しかしそのうち、死んでしまったのか、と蒼太郎の急逝を現実の出来事として、諦めとして、飲み込めるようになる。

 賢人は悲しんだ。ひんやり湿った悲しみの膜の中に全身が包み込まれるようにして。


 
 それから二ヵ月近くが経った土曜日の午後早く、賢人は琴似駅から真駒内方面へ向かう南北線に乗っていた。車内はそれほど混んでいない。車両内側面のシートに座ることができた。

 咲は南平岸駅近くのアパートで一人暮らしをしている。蒼太郎と同棲する話が出始めていた矢先の事故だった、と賢人はあの日以来、何度か電話で話したなかで、咲から聞いていた。引き払う予定が白紙のものへと変わった住み慣れたアパートの一室から小声で話す咲の電話越しの声。それは涙でくぐもることが多く、たびたび嗚咽に乱れもした。

 お互いが相手と別れたばかりだった蒼太郎と咲は、再会の日以来、まるで自然法則に逆らいでもしているかのように、不自然に見えるほどの力強さでお互いがお互いを強引に求めあい、あっという間に結びついた。あまりのスピードに、賢人はあっけにとられ呆然とした。いきなり置いてきぼりを食ってしまったその疎外感に、しばらく苦い思いすらしていたくらいだ。

 もうどうしていいのかわからないくらい、悲しい。咲は電話で何度も賢人にそう訴えた。咲が蒼太郎の弟から四九日法要の日取りの連絡を受け、そして出席を終えた夜、賢人は、次の週末にいちど会って話をしないか、と持ちかけた。

 地下を走っていた南北線の車窓の暗闇が一気に地上の風景へと開かれる。賢人の気持ちも、内向きなものから外界に対するものへと、車窓の劇的な変化がもたらす強制的な力によって、あっという間に切り換わる。降りないと。席を立つ。

 駅の出口はすぐに車道に面するありふれた歩道だった。今年の雪解けはもう終わりに近い。春の風が強くて路面は埃っぽかった。空は一面、薄灰色の雲で満ちており、風がびゅううう、と唸っている。どこからか舞いあがった白いレジ袋が一枚、そんな空の高いところを転がるように滑っていった。

 賢人は咲のアパートを目指し、地図アプリを確認しながら歩いていく。なにも持ちあわせていないことに気づき、途中でコンビニに立ち寄って洋菓子をいくつか買った。そういった時間も合わせて一五分ほどで、咲のアパートに着いた。葬儀以来に見る彼女の顔ははっきりと青白くて、すこしやつれたようだ、と賢人は思った。それでも咲は、賢人を見ると、化粧の薄い顔にいつもの自然な微笑みを浮かべ、今日はありがとう、どうぞ入って、と言った。

 静かな印象の部屋だった。あまり物が置かれていない。黒味のグラデーションがかったタイルカーペットがまず目を引く。壁際に置かれた背の低い横長の本棚は、眺める側へと角度がついていて並んだ本が見やすい。本棚の上の壁には紺地に幾何学模様があしらわれた小さなタペストリーがひとつ掛かっている。その向かいの窓には淡い暖色のカーテンがふんわりとまとめられていた。

「わたしの時間は、どうやら止まってしまったみたい」

 呟くようにそう言いながら、キッチンから湯気立つコーヒーのカップをふたつ手にして運んできた咲はモノトーンのセーターと明るめのブルージーンズという格好だ。彼女は、天板のふちが全体的に丸みがかったアクリルテーブルの脇にある、ダークブルーの平らなクッションの上に座るとわずかに俯く。賢人は勧められた灰色のソファに腰掛けている。賢人の斜め右側に咲がいる。賢人は、咲が深い悲しみの奥底にいることを悲しく思った。

「思いつめないで。これはほんとうに、どうしようもないことだったんだからさ」

 その言葉が継がれることはなく、すぐに二人の間を満たす空間は、しん、と静まった。沈黙がむず痒く賢人の耳の奥に響いている。お互いのカップはテーブルに置かれたまま手を付けられず、湯気だけがたゆたう。同じくテーブルに置かれたコンビニ洋菓子の、熊をあしらったイラストの入ったかわいらしい容器も、乾いたのっぺりとした絵面として眼に映るだけだった。咲は小さくため息を吐くと、俯いたまま、小さな声で話し始めた。

「覚えているかな。私たちが知り合ったときのこと。なんだか最近、よく思い出すのよね。賢人と蒼太郎はクラスメイトだったことがあったけれど、私は違った。高校の三年間、一度もあなたたちのどちらとも同じクラスにはならなかった。だけど、放課後によく、同じ時間に、図書室にいたのよね。私は本が好きで、あなたもそうで、蒼太郎もそうだった。そのうち、なんとなく顔を合わせているうちに、蒼太郎が話しかけてきたのよ。そこから、友達同士のあなたたちに、私が加わることになったんだよね。変な言い方かもしれないけれど、それってとっても、必然だったような気がしたの。そのときだけそういう気がしたんじゃなくて、今振り返ってみても必然でしかないめぐり合わせだったって思う」

 そうだね、俺たちの出会いは必然だったんだと俺も思うよ、俺もよく覚えている、と賢人は同意した。

「毎日、図書館で顔を合わせて、それから近くの公園だとか、マックだとかに行って、やっぱり本の話はよくしてた。みんな、読んだ本の内容を教えたがったものね。今日は蒼太郎が語り、次の日は賢人が語り、その次は私が語り、っていうように」

 賢人の脳裏にもあの日々が小さな光となってきらめいた。当時、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の上下巻を文庫本で読んだこと。感情面や世界観が急激に変化を始め、そのまま全身丸ごと脱皮まで果たしたかのような感動を味わったものだった。二人に伝える言葉をもどかしく探りながら、つっかえつっかえになりつつ、気持ちばかりが先走り、単語だけで無理に語ろうとするような力説をしたことを恥ずかしさとともに思い出した。咲は『ノルウェイの森』をすでに読み終えていて、村上春樹ってちょっと他とは違うよね、とそんな賢人に共感を示してくれたのだった。

「あの日々は、俺もはっきり覚えている。三人だけで完全だったっていうかさ。ほんとうに楽しかった。あの時期に世界は、俺たちみたいな三人なんかのために、不思議と特別な時間をつつましく用意してくれたんじゃないかって、思いあがったことを考えてしまうくらいだよ。無事、大人になったあと、その基盤としてあの日々は今もある、と言いたいくらいだしね」

 賢人を見つめる咲の眼が赤いことに、彼は気づいた。

「蒼太郎が亡くなって、あの日々はもう壊れてしまったわ」

「いや、現在の出来事があの日々にまで及ぶなんてことはないんじゃない? あの日々はあの日々で、もう完結しているんだから。ずっと大切にしていくべき想い出の日々だろ」

「いいえ、違うわ。あの日々の意味は、もはや変わってしまったのよ。悲しみのための日々とでもいうべきものに変わり果てたのよ。楽しかったはずの想い出は、悲しみっていう結末に向かって転げ落ちていくためのつらい想い出に変わってしまったの。楽しかった分、悲しみは深くなる」

 涙がひと粒、咲の左頬をつうっと伝い落ちた。ピアノの鍵盤をひとつ指で押したなら必ずポンと音が鳴るように、しかるべき当然の現象としてというような、なんら違和感を生じさせることのない涙の粒だった。

「そんなふうに考えちゃいけない」

 賢人は窓の外に視線を移す。先ほどとなにも変わり映えのしない曇り空と、ここと同じようなアパートがいくつも立ち並ぶ住宅地がある。景色の奥のほうに見える道を歩く人は誰もいない。猫一匹、どこにも佇んでさえいない様子だった。

「あのね、武器商人の裕福な家で育った男の子の話、していい? 聞いてもらえたら、私の心境がよくわかると思う」

 賢人は咲に視線を戻し、出し抜けになんだろうと思ったが、口を開くことなく、うん、と発声だけで返事をする。咲の眼はまだ赤いままだったが、眉間に薄くよっていた縦皺は消えていた。

「ある国に武器商人の夫婦がいたの。彼らはその頃起こった大きな戦争のおかげで、親から受け継いだ銃や弾薬の製造工場が大繁盛してとてもお金持ちになった。一生、なんの不自由もない贅沢な暮らしを送ってもお釣りが山ほど貰えるくらいにね。そして、子どもを作った。生まれた赤ちゃんは健康な男の子だった。召使いや女中たちにちやほやされて育った男の子は、そのうち学校に通いだす年頃になる。そこでも、教師からえこひいきされて、友達連中からも気を使われて過ごすの。自分の家はなんの仕事をしているのか、それについて男の子はまだなにも知らなかった。そして何年も経っていく」

 順風な人生といえば、順風な人生だ、と賢人は言った。咲は顔色を変えずに、そうなの、と言う。

「いつしか男の子は思春期の真っ只中にいる。ごく自然な成り行きとして、好きな女の子ができちゃうわけ。その女の子は、美しくて聡明な子だったの。男の子は、友達に協力してもらって、その女の子と仲良くなろうとする。女の子はしぶしぶ男の子の相手をしてくれるようになるのだけれど、一定の距離はずっと保ったままだった。ある時、男の子は、一向に距離が縮まらないことにたいそう苛立ってしまう。あまり我慢するのが得意じゃなかったから。それで、ついに強く女の子に迫った。僕は君のことがほんとうに大好きなんだ、もっと仲良くなりたいんだ、って。苛立ちからだけじゃなくて振り絞った勇気も後押ししたんだと思う。でもそのとき、男の子は女の子にこう言われたの。あなたは武器商人の家族、間接的に大勢の人間の命を奪ったし、間接的に大勢の人間に人殺しの罪を背負わせた、そうやって稼いだものすごい額のお金を力として、あなたは不自由なく生きている、そういう人とわたしは仲良くなんかしたくない、って。はっきりとね」

#創作大賞2024 #恋愛小説部門


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