痛い立ち位置、あるいはハリネズミのジレンマ
相変わらず週一でラジオ配信をしている。
話す内容としては今週の出来事、大喜利、各々が用意した議論したいことなど。
議論の中で落としどころに使われがちなワードとして「距離感」がある。
これはコンテンツとの距離感、知人との心理的距離感など使途は様々だが、いずれにおいても「近すぎるとあまり良くない」という結論になる。
コンテンツとの距離感の例を挙げる。
バンドやアイドルなどを推す・追いかける行為における登場人物はファン、信者、アンチの3人だ。それぞれものめり込みの度合いでグラデーションはあるが、ファンは推す対象の曲だったりメンバーだったり部分的に好き、信者は推す対象を盲目的に好きで対象を全肯定しがち、アンチは対象が嫌いで実際にSNSで叩いたりもする、というだいぶ荒い理解をしている。
人々はまずコンテンツにハマる時にファンになる。それから継続的に、加速度的にのめり込む度合いを上げていくと次は信者になる。信者になるとそのコンテンツに盲目的になり、自分の思い描くコンテンツ像が出来てくる。その像と実態に乖離があると不満や苛立ちを覚えるようになり、転じてアンチになる。勿論ファンや信者を経由しないアンチもいるのだろうが、湿度の高いアンチは一度沼にハマっているイメージがある。
基本的にファン→信者→アンチという順番で変異していくことを考えると、この矢印で変わっていくものと言えばコンテンツとの距離感だ。
コンテンツを好きになってのめり込んでいくごとにコンテンツとの距離が近くなり、好きになる一方視野が狭くなり、そのコンテンツを取り巻く環境などが俯瞰できなくなる。
盲目的な信者が、ふとした時にそのコンテンツの粗に気づいてしまうと、距離が少し遠ざかる。少し距離を置くとコンテンツの全体像や取り巻く環境が見えてきて、気づいてしまった悪い部分が大きく見えてしまうこともあるだろう。
熱心に好きで居続けられる信者もいるのだろうが、そのコンテンツを否定するニュースや言説に出会った時に脆い。
コンテンツのことを穏やかに好きで居続けるためには、適切な距離感を保つことと不安材料を受け入れることだと思う。
私とラジオの相方は、そういったコンテンツに熱を入れすぎて心を乱してしまった人達をたくさん見てきたし、コンテンツ大国ニッポンにおけるSNS上ではありとあらゆる信者アンチ達が跳梁跋扈している。
どうしてもっと心穏やかにコンテンツを愛せないのか、その生態や行動原理に思いを馳せながら、我々は話のネタとして消化していく。
人と人との距離感も似たところがある。人と仲良くなり親密になると、その人のことを全面的に好意的に見る一方、「この人はこうでないと」といった人物像の押し付けや期待が強くなってくる。
その期待を裏切られると諍いが起きてしまい、少し距離が離れる。そのまま疎遠になってしまうこともあるだろうし、それでも仲良くありたいと距離を保ったまま関係を続けることもあるだろう。
人との距離感を見誤ったり、その人物像を見誤って変な空気になってしまうことを、個人的に「ハリネズミのジレンマ案件」と呼んでいる。
人は無理に距離を詰めて分かったような気になってしまうと、ハリネズミの針に刺されてダメージを負ってしまうのだ。
若い、思春期の頃の人間関係なんていうのは、針が刺さって傷付いての繰り返しだった記憶がある。仲良くなってぶつかって疎遠になって、それでも続けてこれた関係だけが手元に残っている。
30代になった今では、傷付くのが怖くて新しい人間関係を作るのに前向きになれない。それでも新しく出来た友達には出来る限り誠実に接し、その人の地雷を踏んでしまったり自ら針に刺さらないように、細心の注意を払っている。
コンテンツにせよ、人間関係にせよ、この距離感の例はあくまで一例だが、この傾向は強いと思っている。
我々30代は心も身体も免疫が落ちて傷の治りも遅くなった。
コンテンツを愛すること、人と親密になることにこれまで以上に臆病になってしまうが、それでも距離を縮める努力を続けなければならないと思う。
寂しい中年にはなりたくないよね。