「目的」はなくてもいい
まだ低学年だっただろうか、はじめてテレビで将棋の対局を観たとき、いろんなことが新鮮だったのを覚えている。
ほとんどの棋士が駒を人差し指と中指ではさんで、”パチン” と音を立ててすすめていたなぁ。女の人が動いたところを数字で読み上げている。駒の場所って数字で決まっているんだ。盤を挟んだ二人はいつまでたってもなかなか次を指さないし、待ったなんて絶対なさそうだ。解説の人もなんだかすごく強そうで貫禄がある。なによりもあんなに分厚い将棋盤を今まで見たことがなかった。
当時は中原誠名人の全盛期で、他にもなんか個性的な棋士が多かったような記憶がある。
そんなプロたちのカタチに魅了された自分は、扇子こそ持つことはなかったが、親指と人差し指で無骨に駒をつまみ上げる大人たちを相手に、折り畳み式の薄っぺらい将棋盤に向かって、プロ棋士のようにパチリパチリその気になってその世界に入り込んでいたのだった。
それから世代も進んで、羽生少年の登場。今の藤井八冠もすごいけど、彼の強さと見た目が特徴的な ”羽生ニラミ” も衝撃的だった。当時の戦法では研究の先端を走り、あらゆる戦術を使いこなしていた。テレビ棋戦で若き羽生五段がベテラン加藤一二三(ヒフミン)九段に放った伝説の ”5二銀” 、今でもその興奮の余韻は色あせることが無い。
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子どもの頃の自分は、別に将棋ばかりに没頭するようなインドアタイプの少年というわけでもなかった。
夏は野球ボールを日が暮れるまで追いかけ、そろばん塾をさぼるのは日常茶飯事のこと。
冬はスキー場に通い、昼食の時間を惜しんで白銀の世界に浸っていた。初めてリフトに乗ったときは、とんでもなく高い位置を移動することにビビったけど、自力で坂を上ることなくゲレンデをひたすら滑り降りることに、目からウロコが落ちるくらい感動したもんだ。
ボーイスカウトをかじったこともある。おかげでちょっとしたロープの縛り方を覚えたし、キャンプ好きになるきっかけにもなった。
考えてみたら、趣味はなかなか多い方かもしれない。
子どもの頃は切手の収集にも熱を入れた。将棋のプロになりたいと真剣に考えたことも一瞬あった。小学校の文集では王選手のようになりたいと夢を語った。
音楽はロックやポップ、ジャズ・ブルースからレゲエ・南米・アフロなどワールドミュージックまで今でも幅広く聴いている。バンドにも夢中になりギターやベースをたしなんだりもした。
今でこそなかなか海外に行くことはできなくなったが、それでも国内の旅行を満喫している。
そして生活の中心は家庭菜園になって、毎年実り具合に一喜一憂している。
決して仕事が緩いというわけでもなく、24時間の短さを痛感しながら、気がつけば目まぐるしい思いをしながら歳を重ねてきた。
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よく耳にするんだけど、今やろうとしていることや既にはじめていることに対して、目的というものを前提にし過ぎていないだろうか。
目標とか目的をはっきりさせずに行動をおこすととかく無駄だとか効率が悪いとか大成しないとか言われがちだけど、はたしてそれが本当に必要なことなんだろうかと思うのである。
仕事以外の作業や動きや習慣みたいなものって、成長するためだとか身につけるためとかはあるかもしれないけど、たいていのことは「好きだから」「楽しいから」がなければ始まらないのではないのだろうか。
大人になってからの勉強は知識を蓄えるためもあるかもしれないが、勉強が楽しいからという方が大きい。読書だって面白いからが理由のほとんどだ。
散歩は健康に良いのもあるが、気持ちいいだったり、ただ歩きたいからというのが主だったりする。
将棋だってスポーツだって楽器の演奏だって、素人がその道に精進したってだからどうなのという部分が正直あったりする。プロの場合は収入を得ることがまずは目的になり、スポーツの場合は記録を、音楽の場合は軌跡や作品を残すことが意味あるものになると思うのだ。でも趣味は別だ。
子どもは砂遊びやブランコに乗ることに目的なんか持っていない。楽しいからそうしているのだ。
陶芸を習ったりコーラス隊に入ったりするのも、芸術家として食べていくことを目的にしているのではなく、楽しいからやっているはず。
実はやっていることの多くはあまり意味のないことだらけかもしれない。
だけどそれらはとても大切で生活に大きな充実さを与えてくれるものであることは間違いない。
逆の視点から見ると、ものごとは楽しまなければ意味がないともいえる。
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