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私とアートにおける"映え"

有難いことに、
私は友人と美術館に行く機会が多い。

有名な絵画に触れることも多いが、
最近閉幕したヨコハマトリエンナーレ2020
今月上旬行ってきた。

ヨコハマトリエンナーレは3年ごとに開催される
現代美術のフェスとでも言おうか。

開催される度に気にはなっていたものの、
なかなか会期中に行けず、
今年初めて行くことができた。

アートについて多くを語ることができるほどの
知識や見分が私にあるわけではないけど、
いつも友人とはそれぞれの感性で感想を伝え合う。

しかしこのヨコハマトリエンナーレには
2人揃って悩まされた。


「なんだ…これは…」

と言葉を失うほどの意味不明さ。


「どう解釈したらいいんだ…」

と脳内も心も困惑しかない。


眉間にしわが寄るほどの混乱。

感想を述べられる作品に触れた時の
安堵感たるや。。

でも帰ってからHPやトリエンナーレの楽しみ方が書かれたブログなどを改めて見ると、

"分からないを楽しむ"

というワードが多々見られた。

あぁ、良かった…
私たちはまさにその"分からない"世界に迷い込み、不思議な国のアリスたちになっていたけど、それが主催者の意図とマッチしていたんだ。


ところで、
最近美術館でも写真撮影OKとしていることが多い。特に現代美術。

Instagramを見ていると、
そのアート空間での"映え"を感じる。

少し前に「美術館女子」という
読売新聞の企画に賛否が問われ、炎上した
内容としては映えのことよりも、
ジェンダーに関することが問題になっていたが。


そもそもアートに"映え"が必要なのか。


アートを楽しむために美術館に行くのではなく、
自身のアカウントを映えさせるために
美術館に足を運んではいないだろうか。

Instagram活用世代としては
そうなってしまう気持ちも分かるし、
撮影OKなら映えを狙いたくもなる。
(それを載せるかは別として)

でも、
InstagramなどのSNSの活性化があるからこそ、
現代を共に生きるアーティストは
活動範囲を広げることができ、
さらに問題提起も自由にできるのだろう。

環境や人権など様々な暗い問題を、
映える作品を通して訴えかけることで、
それがSNS上に溢れていく。拡散される。

それもまた良き事と思う。

しかし、それらのアートに触れるなら、
ただ映えを狙って映り込むだけでなく、
その意図を汲み取る努力も怠らずにいたい。


「これは…なんだ…」


とどうにか少しでも理解しようと努めた上で、
有り難くアートにおける映えの恩恵を受けることとしたい。


↓ 私のInstagramから ↓

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