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なにかを「好き」でいるために

幼い頃と比べて「多様性」という言葉を最近はよく目にするようになった。

自由な選択や個性が認められやすくなった分、自分を表現することも他者を理解することも難しくなったなとふとした瞬間に感じることがある。

隠しておかなければ、と思っていた趣味や思考はいつの間にか「当たり前」になりつつあり、皆それぐらいやっているよね、で済まされることも多くなった。
加速していく技術の進歩と、簡単に自分を全世界へと広げ、あらゆる面で繋げられる時代になってきたというのも大いに関係している。

「推し」というものも、そういった現代だからこその存在だなと思う。

「推し」自体は遥か昔から誰かの指針であり、糧そのものであった。表に出る形はそれぞれだが、何かを強く愛す資質を持った人々にとって必要だった。

私自身も、何かを強く愛さなければ生きていけない。

趣味、というか人生というか、己を形成するにあたって「推し活」は大部分を占めている。対象は何であれ、時には極端なぐらい「あなたが好きだ!」と叫ばなければ生きていけないのである。
たとえ捨てようとしても捨てきれない、どうしようもない性を抱えているのだ。

そんな自分は、今の風潮と技術の中で自身の性質と向き合っては悩み、向き合っては悩みを繰り返している。

本当に私はあなたを愛しているのか?

都会に住んでいないのがいけないのか?地方でもどうにかして予定を立てようとしないのが悪いのか?収入を得るために勉強をしていないのがいけないのか?粘り強く申し込んでいないのが悪いのか?誰かを頼りに出来るようなネットワークを持っていないのがいけないのか?

同じものを好きだと叫ぶ人を簡単に見つけられるのも世の中で、自分の足りなさを痛感させられるのも世の中で。

上手く、今と、付き合っていかなかればと常々考える。
時には己を蔑む心を戒めるように、時には固くなった心を解すように。

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