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【適応障害休職中】マイノリティとして生きる覚悟

1 マイノリティ前夜


休職も1ヶ月を越え、「働いていない」ことへの罪悪感が、度々頭をもたげるようになってきた。

私の認識として、

「働いていない」=「お金を稼げていない」

ということらしい。

らしい、とはどうも他人事のように聞こえるが、前回の記事でも書いたような、私のなかにある無意識の偏見が、自分自身の固定観念につながり、今の自分を苛んでいるということにも気づいた。

「お金を稼げない」= 生産性がない = 価値がない存在である

ということなのか?


否、断じて違う。

と、休職前は断言していただろう。

なぜなら、自分は「そういう状態になかった」から。

2 「他人事」でなくなるとき、思考が始まる


最近、アンテナが関連ワードを検索しているようで、上記のネット記事を読んだ。


自分の人生を自分の意志の力で切り抜けたと思っちゃっている人は、「自助」の精神しか存在しないと思い込んでいます。そして、働かない人に向かって、「自分はこんなに頑張っているんだ」「あなたにもできる」と、努力を押し付けます。
働けない人がいることを認めてあげることは、働く人にとってもメリットがあります。なぜなら、私たちは生活を支えるために働いているというよりは、他者や他社と競争することでより大きな売上を得ようとしているからです。
つい、働かないことに対して、後ろめたさを感じたり、世間体を気にしたり、親の意見を気にしたりする人が多くいます。でも、働けない人がいることを当然のように考えておいたほうが、社会は豊かなんじゃないかと僕は思います。

ひろゆき氏の語ることについて、今となってはしみじみと共感する…

「今となっては」という形容詞が、まさに現在の心情に相応しい。


私がnoteをはじめた当初は、学習支援員として、小学校の特別支援学級で働いていた。

ここでは、発達障害を抱える「マイノリティの子どもたちのサポートをする」という名目で。

その後、「下げないワーママ」転職とか何とか言って、個人的には“デキる”雰囲気を醸し出しつつ、英語の進学塾への転職をした。

特別支援学級でのサポートは、想像以上に心理的負担が大きく、期間限定の仕事であったことに、正直なところホッとしてしまったことも隠さず伝えておきたい。

「マイノリティ側の支援役」として、自分の軸をつくることは、半年では到底出来なかったし、知識やスキルだけでなく、何というか「心構え」みたいなものが、そもそも欠落していたのではないかと思う。“振り回され”、落ち込み、やめたい・逃げたいと思う日も多かった。


育児中でもキャリアをあきらめない、もっと言えば、自分の学力とか世間を渡り歩くスキルを売りにして、収入を上げつつ、将来的に正社員になれるという資格も同時に手に入れ、「安定」「安心」を同時に得たつもりだった。

ひろゆき氏の言うところ、「自助」の精神をもって、努力し、現状を切り開いたつもりでいた。

しかし、適応障害の診断を受け(結果的に自分の判断がその土台にあるわけだが)、休職となり、今に至る。

家族や友人知人の温かいよりそいや勇気づけ、転職先の紹介といった「共助」、休職期間の通院(これも3割負担で済んでいるわけだ、)社会保険制度に基づく(微々たるものだが)傷病手当金の支給など、「公助」の力も借りているわけである。

落ち込みが激しい時は、生活保護について考えたりもする程、経済的には不安な状態が続いている。(夫は自営の小さな農業の期間中…こちらもなかなか利益は出ていない現状)


時間だけはたくさんあるから、物事が考えられる日は、こうして思考をまとめるために文章を書いたり、必要な情報に触れて次の一手を考えたりもしている。

自己観察、内省、通院、ポジティブサイコロジーの実践、就職活動、複業の可能性を探る日々…

そんななかで、自分がこれまではマジョリティ側の者として、物事を思考しがちになっていたのだと気づく。

他意も、ましてや悪意などもなく、それはただ、マイノリティ側の立場では物事を見ていなかった、ということだ。

それはどこか、「ピンと来ていない」という表現がピッタリだという気がする。

考えたことがない =他人事

なのである。

・働けない時がくるかもしれない

・健康を致命的に損なうことがあるかもしれない

それが、「いま」「私のこととして」起こっている…

そういう状態になってみてはじめて、やっと、「じゃあ、どうする?」「どうにもならないことがあるんじゃないか?」というそもそもの議論がスタートするゼロ地点に立てた、という気がしている。


3 「努力」の扱いづらさ


具体的なひとつの例を挙げるとすれば、それは、

努力

という概念についてであると思う。

以前の私は、おそらく

努力すること=絶対的に正しいこと

というスタンスに近かったように思う。

しかし、心理学を独学したり、マイノリティ側に自分が立ってみてまさに、

努力出来る =環境+運 に左右される

のだと理解した。

もっと細分化して言えば、「努力」には、何かに継続的に集中出来る遺伝的な基質や性格が関係していたり、努力の継続が担保される安定した両親や経済的基盤が確保されていること、大人であれば本人が職業などの選択をしてきた結果、努力が効果を持つ状態にいることなど、本人にはどうしようない運的要素によってかなりの部分左右される側面がある、ということである。

精神障害を持つ人は、一見それが分かりやすい視覚的な特徴を持たないために、マジョリティ側からしてみれば、「甘えている」「働けるのに公助に頼っている」などと判断されやすく、本人もそれを感じているため、ますます孤独感がまし、就業が困難になる…という負のループにはまりやすい。

ということが、やっと「今になって」、自分事として腹落ちするのである。

努力出来る人もすべきではない、などという極論を言っているわけではない。

「努力出来る環境や資質がある人が、懸命に目標に向かう」ということを否定するつもりはさらさらないし、むしろそれは美徳のひとつだと、個人的には思う。

しかし、マジョリティや強者の側にいる立場の人が、努力することを強要する社会であってはならないと思う。

だって、いつ自分がマイノリティになるか。そんなことは誰にもわからないのだから。

少なくとも私は、誰かに助けてもらいたいし、助けられる権利がほしい。

卑小で、「建設的」な理屈でないかもしれないが、だからもし自分に余力があるときは、誰かを助けられる存在でありたいと考える。

金銭的な部分だけではなく、友に寄り添うことであったり、こうして情報や意見を発信することであったり、自らの仕事を通してであったり、そのかたちは様々であるが。


4 どんどん「マイノリティ」になる私


「変わってるね」と言われることに対して、私は不快感を抱くことはあまりない。

(あからさまな悪意をその言葉に乗せてくる人に対して以外は苦笑)

裏腹なようだが、自分では「そんなに変わっていない」とも思っていた。


しかし、いくらフラットに考えてみても、どうしたって自分は、生育環境や元来的な気質、これまでの選択や嗜好性を総合するに、

どんどんマイノリティ側に寄ってきている

という気がする。

(言葉的に厳密ではないし、多かれ少なかれマジョリティ/マイノリティというのは、一人の人生でもその季節におけるグラデーションという気もするが…)

少なくとも、今現在のステータスや属性などを列挙してみても、そうであるという気がする。

○適応障害休職中

○抗うつ剤使用が危険なほど血圧が低すぎるため、基本的に自分で症状安定させるしかない状況

○出来れば複業で生計も立てたい

○地方Uターン、兼業有機農家

○世帯収入は、世代平均以下(ずっと下)

○HSS型HSP  …人口の6%と言われる

○マルチ・ポテンシャライト  …現在の日本社会では、「ひとつの仕事や興味が続かない」=キャリア形成や生涯年収に不利を被る

○学歴は割とあるけど、収入と結び付いていない

○スキルや、これと言った専門分野なし

○だからといって自信がないわけではない

○現時点での収入より、むしろ時間のリッチさにより高い価値を置いている

などなど。

(自分の選択の結果だけではなく、やむを得ずそうなっている事柄も含めて)

障害をもって生活している人たち(認知症高齢者、発達障害、精神障害など)、日本に住む外国人の人たちなど、やたら気になって、関わって生きてきたのは、私自身が既にマイノリティだったからかも知れないと、今になって思う。


これから「考えたことがなかった」という物事に出会ったときは、それが「他人事か自分事か」という良き判断基準になるだろう。

自分の内に潜む、

無意識の偏見

になるべく自覚的でありたい。

まずは、自分自身が、「共助」と「公助」の力を借りつつ、自助努力を最大限してみて、次の展開を模索せねば…とも思っている。

アイディアを形にするため、書籍代やカフェで作戦を練る資金に充てたいです…