「毒親」との関係カイゼン。

0  あなたが毒親だったころ


20代…

いや、もっとか。

正確には、たぶん、娘が産まれる前まで…

だから、それは本当に2~3年前という、つい最近までのこと。


あなた方は、私にとって「毒親」でした。

そしてきっと、私もいわゆる「アダルトチルドレン」だった。

今も自立しきれたとは言えないかもしれないけれど、育児と孫育てを挟んで、私たちは関係カイゼンしたのでしょう、きっと。

きっとね。


1 現在の親子関係


40代目前にして、やっと、「フツー」の親子関係になってきたと感じてます。

諦めかけていた孫が突如として現れ(ここも話すと2記事くらい書けそうなので後日に笑)…

初孫にうかれまくり、モノを与えたいばぁばは私にキツく言われつつ、ギリギリの自制心で、私と娘が実家を訪れる度に、精一杯のイチゴを用意してくれます(笑)

私の父母は、ほぼほぼ家庭内別居中ですが(苦笑)、孫がいる間はせめて穏便に、良き祖父母でいてくれている気がします。

(これも、娘の生育環境としては甚だ疑問の生じるところではありますが…汗)


私も、休日にどうしても続けたい健康習慣&趣味のようなものがあるので、その間祖父母が娘を見てくれることに感謝しています。

物理的に、家事仕事育児でスケジュールがタイトになり、それまでの生活と比べて、時間の単価が爆上がりしたことも、私と両親の関係改善に大きく関係していると感じてます。

要は、イライラし続けたり、悶々としてる時間がすごく勿体なくて、そっちの方がしんどくなった、ということでしょうか…(苦笑)

今は、私だけ週末に娘を連れてお邪魔したり、たまに母にお惣菜を差し入れてもらったりと、適度な距離感とありがたい気持ちで付き合うことが出来ているのかな、と思います。



卒業後地元を離れ、上京。

単身赴任していた父との(嫌で仕方なかった)二人暮らし、そこから色々あっての一人暮らしの学生生活、現在の夫との同棲、東京で何故かまた父母との3人暮らし、結婚、Uターン。

そして今、また父母とは生まれ故郷で、不思議なことに「ご近所さん」として暮らしています。

父母が2件目の家を地元に建ててたため、私たち夫婦のUターンが決まってから10年以上、古い方の家(=私が高校時代まで過ごした家)に夫と2人間借りさせてもらっていて、当初はその「おんぶにだっこ」状態が、私と両親の距離感をまた「気持ちの悪いもの」にしていたりしました。

金銭的な支援(持ち家の提供)をしてもらってるんだから、その代わりこれしてあげなきゃならない、とか、頼まれたことは夫が全部応えてくれていた、みたいな…(まあ、夫は素でやってくれてた部分と、キブアンドテイクのバランス考えてくれてた部分両方だったんだしょうけど…)

私の中でも、

両親から自立したい  →経済的に全然自立出来てない  →苦しい  →でも方法がない  →ガマンする  →どこかに無理が生じる  →両親への不満がくすぶり続ける、自己肯定感低めで停滞


ということになってたのかなぁ、と今になって思います。


新卒で就職した進学塾は体調不良ですぐに辞め、静養期間を経て霞ヶ関での派遣、結婚、資格試験後に認知症ケアを経験、Uターンし夫と新規就農、不妊治療や副業のスタート、副業の本業化(コーヒショップチェーンでポジションアップ)、3度の初期流産を経験しつつ育児について勉強、娘が生まれてからも社会的な制度やお金のことを学び直したり(というよりそれまでは、マネーリテラシーが低すぎた…)、習慣を見直したり、、、

少しずつ自分の経験値が上がると共に、私の価値観やモノの捉え方が変わってきたのかも知れません。

それは私ひとりで頑張ってどうこうなったことではなく、良い出会いや様々な学びの機会に恵まれ、周囲に影響を受けながら、感謝する気持ちが自然と芽生えてきたからかもしれません。

と同時に、小さな日々の積み重ねを疎かにかせず、習慣を変えることでマインドセットを変えようと、学び行動してきた自分自身を認め、労いの言葉をかけてあげられるようになったことが大きいように思います。

やっと今、フラットに過去を振り返ることができると言うか(苦笑)


2 子どもの頃は早く家を出たかったなぁ…


船員だった父と、美容師で在宅仕事だった母。

幼い頃の父は、海外に渡航するコンテナ船の機関士で、半年~1年不在のことも多く、私と弟は父を「あの人」と呼んでいたりしたこともあります。

なつかない子どもとストレス、元来の性質もあってか、父はかなり暴力的で、裏拳ではたかれたり、ガラスの灰皿が飛んできたり、弟に至っては首を捕まれて持ち上げられたり、、、

あの光景は、今でも鮮明に思い出します汗


私は幼い頃は社交的、読書やおしゃべり好きで仕切り屋の性格。

幼稚園からその先、学級委員や部活の部長をさせられたり、友達も多く、父のいる家が嫌で嫌で仕方なかった分、外交的に、家以外に自分の居場所を作りたかったのだと思います。

私は私立の大学にも行かせてもらい、結果的には金銭面でたくさん支援してもらったことに、親となった今は深く感謝してます。

ただ、幼い頃は、夕食の席で折に触れ、銀行の預金通帳を見せられ、「お前たちにはこれぐらい(コストが)かかってるんだ」と言われたのには心底嫌だったし、辟易してました。

「だったら、生まなきゃよかったじゃん」と思ってましたね。

今思えば、父がどこかで聞いてきた先進的な(?)お金の教育だったのかも知れませんが、その割りに、お金の使いどころには親自体がかなりユルユルだったし、私にももとめられれば出す、みたいなところがあったので、全くポリシーのないものでした(笑)


更に最悪なのは、タバコは勿論、酒癖が悪かったこと。

「悪い」じゃ済まないですね、多分中毒だったのかな、と思います。

詳しくは書きませんが、そのお陰で、お酒に弱く、普段全く飲まないのに酒造りをしている、私の夫を愛してやみません(笑)


色んな要素が、親子関係のズルズルに拍車をかけて、私も大人になってからのメンタルと体の不調、社会に出てから疎外感や無能感を感じたりで、かなりの不都合と支障をきたしておりました。

夫と大学で出会い、結婚しなかったら、今の私はなかったと、時々そら恐ろしくなります(苦笑)


弟はさらに、同情の余地は本当にたくさんあって、、、

割りと勉強が出来た姉と常に比較され、毎日「お前はダメだ」と直接的にも間接的にも言われ続ける日々。

大人になってから、彼は発達障害と判明するのですが、言葉も少なく、要領も悪かった弟は、実の父親に存在を受容してもらえず、今思えばかなり小さい頃から病んでしまっていたのだと思います。

警察の面倒になったことも、ありました。

大人になってから、生命の危機に瀕したことも…

この時も結局、警察のご厄介になってるんですがね…そして、この時まさにパニック障害を発症したことからASD・ADHDが判明…


まぁ、子どもたちが「まっすぐ」育つ環境では、全くなかったわけです(笑)


そして、今思えば、診断がなかっただけで、両親共に発達障害だったのだろうと思います。


父とはとにかく、心温まるようなエピソードが皆無。

感情的で衝動的、いつも無表情で自分のルーティーンを頑なに守り続ける。

他人には批判的で厳しく、実際傷つく言葉を意に介さず放つので、友達と呼べる人はいないようでした。

仕事の付き合いも、ごく少数。

大学時代、恐怖と諦め、嫌悪感しかなかった父との関係を変えたいと思い、飲み込み続けた本心の言葉を伝えようと、勇気を出したことがありました。

結果は、見事に空振り(笑)

文字通り、父の「こころ」には見事に、どこにも触れず、ただ「気にくわないことを言って激昂させた」だけ、といった感じでした。


定年退職後も、ほぼ母以外の誰とも会わず、またパートの仕事とお金のやりくり、決まった家事と夜の晩酌のルーティーン。

母は折に触れ、

「あの人は人の気持ちがわからない。感情がない。何であんな言い方しかできないんだろう。あんな人だと思わなかった」

と今でも言います。

私からしてみれば、母も母で、物事の理解力が非常に乏しく、数字には特に抵抗感が強く、注意力集中力が欠如している…

両親を見ていて、冷めているようだけど、この2人が生きている間に折り合うこと、心を通わせることはもうないのだろうと考えています。

大人になった今だからこそ、フラットに、こんなことを考えても、感情に支配されずにいられますが…

幼少期から青春時代にかけては、原因も理由も分からず、ただわが身の不幸を嘆いたり、親をうらんだり、「早く自立しなきゃ」と焦る毎日でした。

自立より自律が先で、その意味することが何たるかも分からなかったから、社会人になってもまだ葛藤と挫折は続いたのですが(苦笑)


3  家族でも、他人


弟の発達障害が分かり、「あ!父もそうだったんだ!!」と思って、かえって胸の支えが下りた思いでした。

だから、だったんだ、と。


そして「私のこの過ぎた生きづらさは、そんな親たちが作ってきた生活環境と、もしかしたら彼らから引き継がれた私の遺伝子にも影響されているのかもしれない」と、自分自身に対しても、少し引いた見方でいられるようになった気がしたのです。

対処法が、初めて分かったというか。

これだってはじめは、私の夫が手を引いて、彼の明晰さと行動力で、弟の「事件」や「問題」を究明し、解決に導きたいと尽力してくれたことがきっかけでした。

物事が混線したとき、こんがらがってどうしようなくなった時には、こんな方法で、こういう手順を踏んで、こういう姿勢で解きほどいていけば良いのか、と。

夫が、私たち家族のためにとってくれた行動の軌跡が、そのままその後の私にとってのかけがえのないプレゼントとなっているのです。


この時間と労力をかけた夫の行動についても、弟と、その後妻となった女性(籍を入れただけ、私は会ったことがない)の心ない言葉が聞こえてきて、ひどい徒労感を覚えました…
それからは、こちらから弟と連絡を取り合うことはなくなりました。彼は服薬を続けつつ、職場にも恵まれている(その会社では事件を知っても受け入れ、復帰プログラムを組み、職場内の環境を整えて仕事を続けられるようにしてくれたのです!)し、現在は家庭も持っているので、私たちは自分たちを守り、私たち家族自身が穏やかでいるためにも、もうなるべく関わらないような距離感を選択しています。


それから、おそらく私もグレーゾーンに立っている人間なのだと思っています。

でも、今は、そのことについてはあまり意識していません。

人間、ひとりひとり個性的なことに変わりはないし、誤解を恐れず言えば、それが「障害」と認定されるか、必要なサポートが公的に与えられるべきなのかは、ボリュームだけの違い、という風に考えるようになりました。

勿論、必要なサポートについては配慮され、手に入れることが出来なければならない。

私の場合は、自分の人生が人との出会いと、そこから生まれた感謝と学びにより、良い習慣が出来て、少しずつ変化が起こり、何とか自力で持続可能になったように思えるのです。


逆に、父は仕事を全うし、金銭的には何不自由ない暮らしをしていますが、感謝という概念(?)が大きく欠如しており、善きことをすぐに忘れ、物事のネガティブな側面にばかり目を向け、家族への配慮が皆無。

そして、衝動的(特に子どもだけには暴力的だった)で、他責的。

ここに障害があったのだろうし、生育環境や時代もあって、診断や必要な支援なども受けられなかったのでしょう。

大いに同情の余地はありますが、子どもからしてみれば、まぁ、幼少期は特に被害を受けたな、という実感です(苦笑)


弟も、よくよく考えれば父とソックリなんですよね。

まず言葉が僅かで寡黙。

母に対して尊大になったかと思えば、急激に自己肯定感が落ちてパニック症状に陥る。

人に全面的に頼りきった後は、忘れるのも早く、感謝とは何ぞや?という感じ(苦笑)

彼の場合、職場で復帰プログラムを組んでもらったり、カウンセリングも定期的に受けられる(今となっては憶測ですが)ので、父の条件に比べれば、ライフスキルを学び身につけてゆく機会には恵まれているはず。

少しでも生きやすくなることを願ってます。


4 私は、自分の家族を守りたい


何とも歯切れの悪いまとめになりそうですが(笑)


今ですら、結構際どい家族関係でしたね、まとめると(笑)(笑)


私の現在の心境としては、こうです。

夫と、娘と、3人の家族を守りたいし、楽しい家庭を築きたい。

それだけです。


ドライに、突き放したように聞こえるかもしれませんが、父母も弟も結局はかなり逞しいんですよね、、、


金銭面では私たちよりずーーーーっとリッチだし(笑)、何より、「忘れる」ことができるんですから!!


私がサポートしてあげなかきゃ、とか、この人たちを導いてあげなきゃ、とか考えるのは愚の骨頂!!

(試みたことがあっただけに)時間のムダ、精神力のムダ使い!!!(笑)


私たちは忘れることは出来ないし、さらにどうしても許せない「ライン」もある。

傷つくし、かえってダメージを受けて修復不可能が深傷を負うことも、可能性としてなくなったわけではないと思ってます。


私のメンタル、家族の未来を守るため、今はこの距離感が最適解。


せめて保険や通信費の相談ぐらいは乗ろうかなぁと思うぐらい。

こんなことですら、ちょっと前までは「重い」「めんどい」って思っていたんだよなぁ…(苦笑)

アイディアを形にするため、書籍代やカフェで作戦を練る資金に充てたいです…