【適応障害休職中】本当はマジメでも、いい人でもなかったのかもしれない
ここ最近、ひろゆき氏の言葉で、いちいち自分を省みたりする。的を射ていて、「あー、私これ当てはまってるわー」ということも多いのに、変に落ち込むことはないので不思議だ。今回の記事も、「あ、職場でこれやっちゃってたかもー」と思った。
マジメ系クズ…確かに(苦笑)
職場では間違いなく「真面目ですよね」と言われてきたし、接客業では人当たりの良さや第一印象の良さは確実にプラスに働いたし(仕事の評価にも直結した)、対人スキルが必須な仕事(介護や教育など)では、やはり人物の全体感として、真面目そう=誠実そうであるという印象を与えることが、職務上求められている“資質”みたいなものであったなぁ、とも思っている。
しかし、しばらくして真面目さ故の硬さや、融通のきかなさ、「真面目だと思われているから」というレッテルを自ら勝手に貼り付けて、自由でこだわりのないふるまいや選択を妨げてきたのかもしれない、とも思うのも確かだ。
一方で、齢40を前にして、「マジメを方便として使う」ということもしていたな、ということにも気づく。20代の頃は、自分がもっとマジメで善人であると頑なに信じていたような気がしたのだ。
それが、職業上での経験だけではなく、これまでの人生で起こったあれこれ、感情的な部分でも、選択してきた行動のうえでも、自分が思っているよりは、たいしてマジメな人間ではなかったように見えるし、「マジメを演じることで、自分に都合の良いようにキャラを設定していた」のだと思う。
別に意図的にそうしていたわけではなく、結果としてそうなっていた、ということだ。これが自己防衛本能のためか、無意識的な損得勘定のせいか、それは私自身よくわからないし、環境や場面によってはその両方だったのかも知れない。
娘を育てはじめてからは特にそうで、対外的にマジメであるというイメージが保てないと、人間関係上何かと不都合が生じる、ということもあったのだろう。
母親としてあくせく奮闘しているように見える(実際四苦八苦していることの方が多いのだけれど…)
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助けを求めやすい
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ようやく人として一息つける
というようことがある。特に、日本の私の住む地域では、「保育園に子どもを預けてブラブラしてる(休職中だと、事情を知らなければ結果的にそう見えるだろうな…)」なんて、多分非難の的になる…
そして、他人が言葉にしなくとも、日本に生まれ、私の親世代の風習や慣習の移り香が抜けない私自身の心の声が、たぶん後ろめたさや罪悪感を唱え続ける…
だからきっと、「マジメ戦略」が私にとっては過去も(そしておそらく今も)死活問題であった、という気がする。そうでなければ、余計な人間関係のイザコザとか、引き受けなくて良いトラブルとか、その他諸々のメンドウなことが起こっていたのかも…と想像するだけでも暗鬱な気持ちになる(苦笑) HSPだしなぁ。
ソツなくやってきた(ように周囲には見えているようだ)職場でも、本人は「もう限界」になっていることもあって、そういう時にキレイに(?)辞められた、という理由もオマケもある。(ライフステージや移住などの環境変化で辞めざるを得なかった場合を除いて)
「真面目」を決して褒め言葉とは思っていないけれど、「まーしゃさんが辞めるんだから、余程のことがあったに違いない」と思われているようで、それ以上の詮索はされなかったり、かえって同情されたりすることもあった(あの人のサポートしなきゃならなかったんだからそりゃ大変だったよね…というように)
「結局辞めるんだから」とか、「途中で投げ出して周りに迷惑かけてる」という見方をするなら、「真面目系クズ」であるに違いないとも思う。
しかも、ひろゆき氏の記事にあるように、「不真面目(=普通のレールから外れて成果を出す人、異才、天才)の足を引っ張る」とか、「マジメさにしがみついて、ムダなことをする」とか、「全員に好かれようとして結局嫌われる」とか、そういう類いの「真面目さ」を、自分も過去に持っていた自覚があるし、これからも気をつけないと、無自覚に「真面目系クズ」になってしまう危険性はある。
これは、私が考える長期的な幸福という観点から見ても、決して賢明ではない。雇用されるにしても、はじめの段階では「都合の良い真面目系クズ」に成り下がらないためにも、少々世間的な全うさからは外れたとしても、より大きな成果や貢献度の観点から、目の前の行動を選択したり、何より他人に評価を委ねない、自分の軸を中心に置いた視点を常に持っていたいものだと、「マジメ」に考えさせられた記事だった。
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