【読書note】『保育の質を高める』を読んで考えたこと

仕事での必要性から、下記を読了。



現在2歳6か月の子の育児中ということもあり、能動的に読んだ。仕事でも家庭においても、フィードバックが多くなりそうな一冊。


かつてから、「サービス」として保育や教育をとらえる視点には懐疑的だった。保育や教育といった分野に消費者マインドや資本主義社会の比較競争主義をそのまま持ち込むことに対しては感覚的に危機感を抱いてはいたが、本著を読んで、それが論理的かつ具体的な問題として認識出来るようになった気がする。

特に、欧米(特に英米)主要何か国かで行われた大規模な追跡研究や実験をもとにした論文の引用などから、日本の保育における「通説」的なものの根拠のなさや、非論理性が明らかになる。例えば、「幼児教育機能の充実が推奨されるべきである」という保育観について。これは言い換えれば、保育だけでは足りない、教育が不可欠であるという、「教育が保育よりも一段高いところにある」という前提である。
これは認定こども園の認定基準をみるとよく分かる、と書かれている。

①食事に関する調理室や専任の調理員の配置(現行の保育所では必置)を一定の条件付きで置かなくて構わないとしている

②午前中は学級単位で教育しなければならないとしながら午後の時間の保育の子ども集団のつくり方についてはなんら規定がない

③職員配置の基準については3歳以上の短時間児は35対1、長時間保育児については4・5歳児30対1、3歳20対1、1・2歳児6対1など形式的には幼稚園・保育所の基準を踏襲しているように見えるが、実質的には保育者の切り下げになっている(計算方法によると、子どもの人数次第で保育者の受け持ち人数はこの比率を超える場合が予想されるという! かつ幼稚園設置基準では学級に専任の教諭を配置すべきとなっているが、その規定もない)
 

などなど。これは、子どもたちの遊び・食事・友達や大人との人間関係など、子どもの生活にかかわる部分が規制緩和の対象となっているためだ。「教育」より一段低く位置づけられている「保育」とは、「子どもたちの生活」そのものだ。これは、OECD報告書が提唱する、子どもの「今、ここにある生活」を大事にすることが未来につながるとする保育感に背を向けていることになる。私たちにとって、制度設計上耳障り良くつじつ合わせがされた言葉に惑わされることなく、生活と教育が統一された保育をすべての子どもたちに提供すべきであるという認識にたった保育観を作り上げる必要がある、と著書は訴える。
その具体的な方法の選択肢として、

①・レッジョエミリア市の幼児教育実践

②ニュージーランドカリキュラム「テ・ファリキ」

について詳細が書かれている。この辺りも、仕事や育児への豊饒なフィードバックの可能性が大きく、現在進行形で学んでいるところだ。
その後は、第2章「市場原理と保育の質」、第3章「第三者評価・マニュアル化と保育の質」、第4章「保育の質研究が明らかにしたこと」と続き、欧米の先行事例などをもとに、日本の保育現場の実態と制度上の問題点を浮き彫りにしつつ、警鐘を鳴らす内容となっているが、個人的に一番印象に残った点が、第4章にある「保育条件は子どもの発達条件」という箇所にある、『「世界離れ」した日本の最低基準』という件。 イギリス、アメリカの保育者配置の最低基準と実態調査の結果をまとめた表が示されているのだが…3~5歳児については、日本の保育者はアメリカの保育者の2倍の数の子どもをみていることになるという!アメリカもイギリスも、私企業や民間の非営利団体に保育の供給を大きく依存しているため、国や州の基準は94%の保育所がクリアしていても、強制力のない連邦基準については半数の保育所が基準以下の保育をしているという実態はあるものの、両国政府がつくった基準は、どの年齢児であっても10人を超えて、一人の保育者が受け持つことなど想定していない…という!!

イギリスの実態からいえば、3~5歳児5,6人に1人の保育者がいてはじめて、保育の質が確保できるというのが常識です。
それに対してわが国の政府は、3歳児20人、4・5歳児30人に保育者1人という現行の最低基準の改善にいっこうに手をつけません。そればかりが、延長保育や、定員を超えた子どもの受け入れなどを保育者の増員なしに進める「最低基準の弾力化」を進めてきています。政府・厚労省はよく「規制緩和は世界の流れ」といいますが、現在の最低基準がどれだけ「世界の流れからかけ離れている」かを説明しないのはまったくアンフェアです。(p.205)

「知らない」ということはつくづく恐ろしいことだと思う。幸い、保育現場を見て、体感して、内側から知る機会に恵まれ、保育や教育について深く考え逡巡する幸運を得た。同時に、現行制度ではどうにも打破できない仕組みや閉塞感に対処できずにモヤモヤしていたのも事実。保育士の人たちの労働環境は決して良いとは言えない。

休憩が1時間続けてとれない日が多い/日々変化する子どもの健康状態に左右される/体調管理が大変/誰でも同じ仕事が出来るとは限らない(特に低年齢の子だと、「この時はこの人でないと対応が難しい」という人と人の相性の部分がある…などなど、枚挙に暇がない)し、助成金で経営が成り立っているとすれば、現時点で保育士の待遇改善を現場ごとに判断するのは非常に難しいというのが実態だ。

保育士だけではなく、事務は事務の大変さもある。保育士が体調不良で休めば、代理が見つからない場合、事務が保育のサポートに入る日もある。保育士の休憩が回らない時は、事務がその時間帯を埋めたりもする。

ちなみにこれはかなり際どい行動である…保育に関する講習を受けていたり、保育としての加算対象となっている立場であれば勿論問題ない。しかし、そうでない場合(事務専属で雇用されており、かつ事務員として助成金の加算対象者である、など)、加算対象から外される覚悟で、その時現場の必要性を満たすために保育に参加せざるを得ない、という選択に迫られるかもしれない…そして、事務の手が止まれば、保育現場を支える手続き一般が遅れたり滞ったりする。事務の仕事は助成金の要綱に沿って書類を準備することがその大半であり、それゆえに助成金獲得のための書類に不備が出たり、そのせいで監査の際に指摘や是正があり、さらにその後処理に追われてまたペーパーワークが増え…というループにはまることになる。
 

これは全て、保育現場の、「子どもの安全と安心を確保する」という何が何でも最重要任務として優先されるべきことを通すためだ。誰か「悪者」がいるはずもない。強いて言うなら、現行制度に見直すべき点があり、書類上の手続きが多いせいで、実質的に子どもたちにかけられる時間が減る、ということだと思う。保育士も日々の保育に加え、ペーパーワーク、季節行事の準備などに追われれば、結局は子どもに集中して関わる時間と集中力は目減りするに決まっている。(さらに、子どもと過ごせば子どもたちからもらう感染症のリスクも高く、体調管理によほど気を付けないと保育士自身の健康も維持しにくい、という点もはたから見ていて実際問題として大きいことだと感じている…)
 

まだまだ仕事を覚えることで必死な毎日だが、少しずつ出来ることを増やして、園の運営に貢献出来るようになりたいと思う。しかし、割ける時間や労力は限られている(もともとそんなに要領が良くないうえ、私自身が小さい子を抱える育児中であるので) 

タイムマネジメントと業務の効率化、スタッフ間の円滑なコミュニケーションの橋渡しなど、まずは出来ることからコツコツと継続し、スキルも信頼残高も蓄積してゆく中で、ゆくゆくはもっと大きな視点で、「保育」や「教育」に対しても緩やかにインパクトを与えてゆくような仕事ができたら良いな、とそんなことを思った。

幸い、労働環境についてかなり配慮のある職場であるし、さらに運営が企業主導型ということもあり、経営上もある程度幅を持たされていている(それでも「良心的」な保育料で、運営はなかなかに厳しい)

何より保育理念と企業の在り方が、私のライフスタイルやライフビジョンと軌を一にすると感じている。個人的な働き方や人生に関しても、持続可能であることが今回の転職のテーマでもあるから、「保育」について考え続けることはそういう観点からも、長期的には果実があることだと言えるかも知れない。

アイディアを形にするため、書籍代やカフェで作戦を練る資金に充てたいです…